つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。このたび不定期更新に切り替えました。

これまでの努力、そして存在は、絶対に無駄じゃないです。

台風10号が、温帯低気圧になりました。しかしその爪痕は深く、北海道そして岩手県に甚大な被害を与える結果となりました。こころよりお見舞い申し上げます。

 

 

 

朝からの報道内容を見ていくと、道東方面や富良野方面に強い雨が降り、川を氾濫させ、住宅地や農作地、酪農地帯にまで浸水するという大きな被害をもたらしました。

 

加えてショックだったのが、交通網のマヒです。

日勝峠(にっしょうとうげ)という場所があり、札幌方面と帯広方面を結ぶ重要な道路だったのですが、峠につながる橋が崩落したため、物流がストップする事態となりました。また、JRも先日の台風の影響が色濃く残っており、路線の復旧には更に時間がかかる見込みです。その他の主要国道(特に海沿い)も長時間にわたり通行止めになったりと、行動に制限がかかってしまう事態に。地震ではないものの、水と風の脅威を感じずにはいられなかった8月でした。

 

また、この影響は時間差で「日本各地」に及びます。

それは、北海道産の野菜やお肉、鮮魚の物流や日用品の生産に大幅な遅れが生じることです。これは直に「価格が上がる」ことに直結します。既に影響が出始めている品目があるくらいなので、今シーズンは我慢の日々が続くかもしれません。

 

その他、畑などに川の水や泥、土砂等が流入していることから、これを以前の状態に回復させることが必須になります。札幌のローカル番組でインタビューに答えている人の話を聞いた限りでは、来年畑として使えるかどうかはまったくわからないとのこと。国や行政の援助は入るかもしれないものの、目の前で起きた現実に対し、ただただ呆然とするばかりだとのことでした。

 

こういう状態を聞いていると、連続して台風が直撃したということはこれも「災害」にあたり、今後「復興」が必要だと感じました。となると、記憶に新しい東日本大震災や熊本の地震のときのように、一日も早く日常を取り戻すための助けが必要ということになります。季節は夏から秋に移り変わりますが、土砂やがれき、流木などの撤去や住宅の掃除等に協力してくださるボランティアさんの力が必要になってくると思います。今は時期尚早かもしれませんが、北海道には厳しい冬の季節があります。雪が降る前にある程度の段階にまで「日常」を引き寄せなくてはなりません。水量はいまだ多い状況ですが、少しでも早いタイミングでの行動と展開を願うばかりです。

 

 

 

 

 

また、6月の下旬ではありましたが、わたしも道東方面へ赴いていました。

 

羅臼町にも訪れていたため、土砂崩れで道路が寸断され、インフラも止まってしまったという報道に驚きを禁じ得ませんでした。道東地域では広範囲にわたってゲリラ豪雨レベルの強い雨が降り続いています。あの雄大な土地の景色が一変してしまったかと思うと、ほんとうに残念でなりません。自分でも、何かしらのかたちで復興へ向け微力を尽くしたいと思います。

 

 

 

 

自然の脅威の前では、わたしたちは「無力」なのかもしれません。

あらゆる災害に対しての防御策を講じていますが、自然の脅威はかんたんに、更にその「上」に行き、及びます。これはひょっとすると、人間が自然の脅威を未然に防ぎ、自然をコントロールしようとする姿勢へ対しての何らかの意思表示なのかもしれません。

 

それと同じ、ではないですが、ここ最近「また」悲しい事件が起きています。

若い世代による殺人。そしていじめによる自死

何度も何度も繰り返されている、負の連鎖です。

 

亡くなられてしまったひとは、ひょっとしたらご自身を「無力」と感じていらっしゃったのかもしれません。悲痛な叫びを訴えても「結局」周りは動かない。すぐにそんな「大事」にはならないだろうと、最悪の想定を拒否(または遠ざける)します。

 

また、人間特有の「事なかれ主義」がいまだに蔓延っています。

これは「いじめ」に限らず、様々な社会問題に深く根付いています。事を明らかにすることで被るものがあるということで、被害を受けている側に対して「我慢しろ」といった説得をするという、不可思議な現象が「常識」として罷り通っていることが、実は色んな問題に「波及」していることを、多くの人は知りません。戦争であれ、もっと身近な社会問題であれ、自分の中にある根本的な問題を見つめ、対処していかない限りはなくなりません。それを知らずにいては、悲しい事実ばかりが増えていきます。憤りの時間はますます増えていきます。声を荒げることが解決につながるのではありません。

 

 

 

北海道の夏休みは本州とは異なり、現在は既に2学期が始まっています。

本州では明日から新学期ということで、警戒を強める声が高まっています。

 

 

 

望むべくは、警戒して「未然に防ぐ」のではなく、普段の行いをどう変えていくかが大切になってきます。未然ということは「いつ、また」になるかはわからない状況です。災害も、いじめによる追い詰められた状況も、その時点で事態が急変するとは限りません。その場限りになっては、元の木阿弥です。そうならないためにも「いのち」の大切さを理解してもらうための「教育」は、少しでも早くに実施して欲しいです。

 

 

 

いとも「かんたんに」ことばを作ることができる環境にあるいま、相手に対することばもどんどん「軽く」なったり、ときには「残酷」になったりします。それは対面で話す時間よりも、メール等で会話する時間の方が圧倒的に多くなったからと、つながりに対しての意識が希薄になっている印象があります。そして、便利になっていくのとは反対に、わたしたちのことばの使い方は次第に「未熟」になっている感覚を持っています。以前のわたしが特にそうでしたが、感情的になったり、ドライになっては相手との距離を一気に広げてしまったりと、悔いても悔やまれない経験をたくさんしました。その時は「こうとしか言えない」という心境のもとで相手にことばを伝えますが、それが果たして「正しいことば遣い」だったかどうかを、振り返って考えたことは恐らくないと思います。それよりも「自分の正当性」や「自分の○○のため」といった主義主張のほうが勝り、相手に反論の余地を与えなかったり、自分だけの「常識」や「ルール」に則って相手への「態度」を決めてしまったりします。

 

 

 

そして、現代のいじめがなぜそんなに辛いのか。あまり報道を見てはいませんが、自分なりに感じたことがあります。それは

 

・1対多数であること

・いじめという「行為」が落ち着く時間がないということ

・理解者がいそうで、実はいないということ(またはそう感じてしまうこと)

 

です。

 

専門家ではありませんが、わたしも中学、そして高校と周りからそのような扱いを受けた身として考えてみました。あくまで個人的見解ですが、もう少し語っていくと

 

・1対多数

じぶん一人に対して、相手は「多くの人数がいる」ということ。

 

・いじめが落ち着く時間がない

今やメール、そしてラインなどのアプリがあるため、時間を選ばずに相手はその対象に「送りつける」ことが可能です。たとえひとりが「数件」のメッセージを送ったとしても、そのグループにはほかにもメンバーがいるので、かんたんに「数十件」のメッセージなり、それがたったひとりに向けて送られます。そんな状態が長期間続くと、精神的にも疲弊し、判断らしい判断は困難になってきます。

 

・理解者がいそうでいない

これは過去の報道も関係しているように思えます。報道の対象となっているのはすべて「事後」の内容であり、事前に動いて「未然に防いだ」という報道は残念ながら聞いたことがありません。そのすべてが「失敗ケース」であるということから、被害に遭っている人はそのように感じてしまうかもしれません。また、実際に理解者に接触できたとしても、しばらく(本人は相当長く感じます)我慢の日々が続きます。瞬間的に決着がつかない限り、救いというのはもしかしたら「ない」と感じているかもしれません。

 

 

 

こういった事例を考えると「一方的なことば」が相手を傷つけてしまっています。

ひょっとしたら、ですが、対話をすることで解決するかもしれません。

 

しかし、いじめに限らず多くの人はこの「対話」をしたがらない風潮になってきているのでは?と感じてしまいます。最後まで対話をしなかったがために、とても大きな後悔を残してしまうことだってあります。「あのときはしょうがなかった」と「非」を認めず、ただただ正当性を主張するのみでは、過去の後悔も、現在抱えている問題も、双方とも「決して」解決はしないと思います。人間は「ことば」を使って相手と意思疎通を図ります。それはつまり「ことば」を使って相手と良好な関係を築き、数多くの課題を解決することが「お役目」なのだと考えるべきです。それに逆行したことを続ける人に、充実した人生はないと思います。それは人だけではなく、歴史も同様だと個人的に思っています。

 

 

 

 

 

 

今回の台風そして、若い世代が悲しい事件で亡くなる現状を見て、何故かこの作品を思い出しました。

 

 

誰もがどこかで聞いたことがあるであろう「雨ニモ負ケズ」。

銀河鉄道の夜などで知られる、宮澤賢治の作です。

 

 

 

雨にも負けず

風にも負けず

雪にも夏の暑さにも負けぬ

丈夫なからだをもち

慾はなく

決して怒らず

いつも静かに笑っている

一日に玄米四合と

味噌と少しの野菜を食べ

あらゆることを

自分を勘定に入れずに

よく見聞きし分かり

そして忘れず

野原の松の林の陰の

小さな萱ぶきの小屋にいて

東に病気の子供あれば

行って看病してやり

西に疲れた母あれば

行ってその稲の束を負い

南に死にそうな人あれば

行ってこわがらなくてもいいといい

北に喧嘩や訴訟があれば

つまらないからやめろといい

日照りの時は涙を流し

寒さの夏はおろおろ歩き

みんなにでくのぼーと呼ばれ

褒められもせず

苦にもされず

そういうものに

わたしはなりたい 

 

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(原文)

雨ニモマケズ

雨ニモマケズ

風ニモマケズ

雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

丈夫ナカラダヲモチ

慾ハナク

決シテ瞋ラズ

イツモシヅカニワラッテヰル

一日ニ玄米四合ト

味噌ト少シノ野菜ヲタベ

アラユルコトヲ

ジブンヲカンジョウニ入レズニ

ヨクミキキシワカリ

ソシテワスレズ

野原ノ松ノ林ノ蔭ノ

小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ

東ニ病気ノコドモアレバ

行ッテ看病シテヤリ

西ニツカレタ母アレバ

行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ

南ニ死ニサウナ人アレバ

行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ

北ニケンクヮヤソショウガアレバ

ツマラナイカラヤメロトイヒ

ヒデリノトキハナミダヲナガシ

サムサノナツハオロオロアルキ

ミンナニデクノボートヨバレ

ホメラレモセズ

クニモサレズ

サウイフモノニ

ワタシハナリタイ 

 

 

この詩のモデルとなった人は、その当時ではまだまだ珍しい「キリスト教」の信者だったそうです。外来の宗教に帰依することは、当時としては「非常識」であり、言われのない理由で様々な迫害を受けます。それはもう、いじめとはくらべものにならないものです。それでも、上記のような姿勢を貫いたという話が残っており、その意思の高貴さがうかがえます。そして「貫く」ことの凛々しさを感じます。

 

 

 

現代のいじめに関してこれをそのまま当てはめよというのは無理がありますが、いじめた側には「いじめられた側」の心情を知る機会はかなり少ないと思います。わたしは小学校低学年の頃、同じクラスの女子をこれとばかりにいじめていました。その中のひとりが転校することになったのですが、後日わたし宛に封書が届きます。宛先は伊達市からでしたが、わたしとしては何故その女子が自分に手紙をくれるのだろうと、その理由については皆目見当がつきませんでした。

 

 

手紙の内容を読んで、小学校低学年だった自分でも、なんてことをしていたんだろうと後悔することになります。

 

 

そこには

 

 

 

「いじめはやめよう」

 

 

 

 

という一文が添えられていたのです。

 

 

 

 

 

その後、わたしはいじめをやめました。

 

ちょっかいを出すことはあっても、いじめはやりませんでした。

 

いじめられている側の声を聴くことができたからです。

その辛さ、苦しさが、届いたからです。

この出来事が、自分を大きく変えました。

 

 

 

その後、わたしは逆の立場を経験することになります。

つまりは「いじめ」に遭うということでした。

 

 

これは大人になってから振り返ることができましたが、自分には必要な経験であったと思いました。いじめることは決して良い行為ではありません。仮にそのようなことをしてしまったとしても「改心」ができれば、それはその人にとって「必要な出来事」だったということができると思います。もちろん、そのような悲しい出来事がなくなるのが一番いいです。しかし、現状はなくなりません。であるならば、そこから学んでいくしかありません。そこから、改善していくほかないのです。

 

 

 

このいただいた手紙は、かなり前のガラクタ整理で処分しました。

ですが、その文面は今でも脳裏に焼き付いています。

一体化しているからこそ、実物は不要になったと言えます。

それが、貫くことのひとつになったので、ガラクタ整理を行ったとも言えます。

 

 

 

ひとは「目的」や「目標」ばかりを見て動いてしまう傾向にあります。

目的を見据えることはもちろんよいことだと思います。しかし「目的」ばかりを見てしまうばかり、その姿勢がおろそかになってしまうこともあると思います。

 

わたしも、実現不可能かというくらいの「目的」や「目標」があります。

以前にも書いた記憶がありますが、その「目的」や「目標」ばかり見ていると却って足元を踏み外してしまいそうな感覚になります。または、そこにはたどり着くことは出来ないかもしれません。

 

それでも、わたしは「諦めない」気持ちを持とうと心に決めました。覚悟にも似た強い意志を持ち、その姿勢を「貫く」ことで、自分にしかわからないかもしれないけれど、何かが見えてくる、わかってくるような気がしています。

 

ガラクタ整理も、オラクルカードのリーディングも木育も、貫くためのいわば「ツール」です。ごくごく短期間ではありますが、このツールを使って「貫く」ことで、大きく自分を変えることができています。それが「正しい」かどうかではなく、歩みを止めないことが何よりもまず大切で、何より必要なことだと感じています。

 

 

そして、昨日は久しぶりに古本屋で本を購入しました。

ネットで購入したものや、図書館から借りてきたものを含めるとこんな数に。

 

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今朝引いたカードもいっしょに。

 

わたしにとっての「本」は、娯楽でもあり、師でもあります。

わたしはこのブログや、各種セッション、活動を通して、わたしらしいことばを紡ぐことができるようになりたいと常々考えています。そこには、難しくなく、専門的なことばを用いずにものごとの説明ができ、救うことはできないかもしれないけれど、背中を押す程度の強い想いを持たせ、文章力や表現力をどんどん育みたいという想いがあるからです。この到達地点がどんなものかはまだはっきりとはわかりませんが、これも「貫く」ことで「変化の扉」を開き続けることにつながっていくと信じています。

 

 

 

 

 

「貫く」

 

 

という気持ちを込めて引いたカードが

 

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No.61「花が開く」でした。

 

キーワードは「潜在能力を表現する」「展開する」「開花する」「栄える」

 

 

 

 

この気持ちが、必要な要素であったことが改めてわかりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

台風による災害やいじめによる自死、そしてそこにつながる自分自身のこと。

わたしができることを貫いていこうと思った、新月前の夜でした。

 

 

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