「ふり」をやめる。
何か先延ばししていることはないだろうか。
頭の中では、あれではないだろうか、これではないだろうかと考えながらも、いまいち考えが定まらない。なので一度アウトプットしてみることにした。
インプット、アウトプットはやはり大事で、じぶんがやらなければならないことや、やりたいことなどを視認することができるのが大きいと感じている。それはじぶんが抱えていること、抱えたいことの再確認につながり、オーバーヒートの予防柵にもなる。
先延ばしの確認をしたのは、久々だった。それでも、決して忘れていた訳ではない。
書きたいこともある。手を加えたいこともある。そんな気持ちがありながらも、言語化できない自分が傍らにいた。やってみなければわからないのに、やる前からわかっている風の佇まいをする、結局は臆病者の風体をしているだけのような、そんな感じにも見えらた。
人間、ひとりひとり、じぶんを出すための適した表現方法は異なるのだと思う。
あるひとは会話、あるひとは文字、あるひとは音、あるひとは絵といった感じで、そこに伝わるかどうかの心配や不安は多少はあるのかもしれないが、もはやその方法でしか伝える方法がないのだから、それで伝え抜く。その気持ちを感じていくことも大切だと学んだ。
わたしは、話して伝えることのほうよりも、どうやら書いて伝えることのほうが「今は」得意と感じているようだ。これがずっと続くかはわからない。でも、それが馴染んでいるのなら、それを続けて続けて、続け抜けばいいと軽く考えている。
もちろん、不完全燃焼なときもある。そんなときは、敢えてほかのことでじぶんに負担をかけることも必要だ。体力的にも、精神的にも疲れること。そして、そのさなかで新しいことに触れること。そこから触発され、また進むための材料が生まれる。
きっかけには、現実的なこと、ふしぎなこと、両方含まれる。
どちらかを支持し、どちらかを否定していても意味はない。
双方を信じて受け止めなければ、後々バランスが崩れてゆくから。
現実的なこと、不思議なことを目の当たりにして、まずは何も考えず受け容れるようにしよう。受け止めるようにしよう。考えるのはその後からでも遅くはない。
頭で「わかっている」と判断するのは、ときには傲慢と受け取れる。
インターネットで調べたからだとか、誰かが言っていたからだとか、そんなのは「わかっている」根拠にはならない。聞いた話をただ伝えているだけの伝言ゲームに過ぎない。
インターネットが定着する以前のときは「実際に経験して」こそわかることが大半だった。仮にわかっていることが最終的に「正しい」と判断されても、そこに載せることばの重みは、天地雲泥の差があるように思う。
昨日は「音」を通して想いや考えを聴く機会に恵まれた。
「音」が「ことば」に変換されることはなかったが「音」がイメージを頭の中で具現化したり、ありえないような錯覚をもたらした。そこにことばはなかった。そのため、実際に起こった事から伝えたいことを紐解いていくしかないと感じた。
いまは、いともかんたんに調べることができ、かんたんに解決をもたらすことができようになった。それが良いと思える反面、世の中は総じて結果を急ぐようになった。結果だけが大事なのだろうか。結果に至るまでのプロセスは、評価に値しないのであろうか。
偏った正しさに則って頭ごなしに判断することは傲慢以外の何者でもない。
仮にそれが「昔からの記憶」だったとしても、それを立証するために必要な汗や涙はあるということを、刻んでおきたいと思う。
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