つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

あなたを想うということ。

かつて、わたしが大学生だったころ、ひとりの友人ができました。

 

 

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 画像はネットより

 

 

名前を「いっこう」くんと言います。

 

本当は「一高」と書いて「かずたか」と呼ぶのですが、わたしは「いっこう」と読んでいました。

 

いっこうくんはわたしより少し年上だったのですが、入学年が一緒だったということもあり、すぐに打ち解け、仲良くなりました。

 

 

大学は通信教育であったため、法定で定められたスクーリング(本学へ行って実際に授業を受け、単位を取得すること)以外は基本、じぶんが住む地域でのレポート学習を行うのが主でした。

 

わたしといっこうくんは同じ教育学部(学科は異なりました)だったので、共通する科目については一緒に勉強し、レポートを書いていたことを昨日のように思い出します。そして、勉強と同じくらいにたくさん語り合いました。勉強のこと、当時の信仰のこと、恋愛のことなど、幅広く、そして、熱い言葉を交わしながら、互いに切磋琢磨してきました。

 

 

 

 

 

その後数年かけ、時期は異なりますがお互い無事に大学を卒業します。

連絡先はお互いに知っていたのですが、大学という共通点がなくなってしまったので、逢う回数も極端に減り、いつしか年賀状でのやりとりが主流になってきました。その間、わたしも結婚し、忙しい日々を送っていましたので、段々と距離が開いていくのは仕方のないことだったかもしれません。

 

 

 

 

 

それが、後悔の念へと変わりました。

 

 

 

 

 

 

とある日、仕事から帰宅して郵便受けから郵便物を取りだし、家の中へ。

その中から、見慣れない人からのハガキが含まれていました。

 

よく見ると、苗字はいっこうくんの苗字となっており、どうやら彼は結婚したようでした。

しかし、はがきの文面には、予想だにもしないことが書かれていたのです。

 

 

 

 

 

 

 

彼は、既に亡くなっていました。

 

 

 

 

 

 

 

話を簡単にまとめると、どうやらバイクを運転しており、単独事故を起こしたとのこと。

結婚して間もない頃に襲った悲劇でした。

 

 

 

 

 

このはがきを持ったまま、どれくらいの時間が経過したかはわかりません。

 

何度、そのはがきを読み返したかもわかりません。

 

 

 

 

 

彼がもういないなんて。

すぐにはその事実を受け止めることはできませんでした。

 

 

 

 

 

 

あの時、葬儀の連絡は来ていただろうか。

忙しくてついぞんざいにしていなかっただろうか。

もっと、彼とは何かを話すべきではなかっただろうか。

彼と、まだ酒を酌み交わしてもいないのに。

 

 

 

忙しさにかまけていたせいでしょうか。

その時になって、ああしておけば、こうしておけばという想いがとめどなく溢れてきました。無論、彼がもうこの世にはいないことに対し、涙を流したことは言うまでもありません。それよりも、彼の死を知らずに過ごしてきたことが本当に申し訳ないと思っていました。

 

彼は、数少ない、大人になってから出来た親友だと思っていましたから。

 

 

 

 

 

 

 

 

それから数年が経ち、今でも時折ですが、いっこうくんのことを想い出します。

未だに少しは彼の最期に立ち会うことが出来なかったという点での後悔や未練はありますが、その間、自分でも落ち着き、そして整理を少なからずすることが出来たので、昔ほど引きずることはなくなりました。

 

 

 

そう考えてみると、わたしは他の人と比べると「女々しい」人間かもしれません。

「女々しい」とは現代になぞらえると「未練がましい」といった意味が加えられているようですが、わたしはまさしくそれに当てはまります。

 

恋愛話になってしまいますが、女性は過去に付き合った男性のことはきっぱり忘れる一方で、男性はいつまでも付き合ってきた女性のことを忘れずにいる。

どこからか聴いてきた話ですが、わたしはそっくりそのまま当てはまります。

 

そしてこれは、何も恋愛に限らず、友情や仕事といった面でも同様でした。

 

 

 

 

 

それは、ただただ後悔の念だけが理由だろうか。

 

 

 

当初は、そう思っていました。そうだと思える理由がありましたから。

 

 

 

だから、このような歌を繰り返し聴くのだと思います。

 

youtu.be

 

youtu.be

 

 

 

でもそれが「自分を満たすためだけ」のものだと徐々にわかりはじめたとき、後悔の念は霧のように少しずつ消えていきました。

 

もちろん、後悔という感情は残っています。でも、前よりは確実に引きずらなくなってきています。確実に次に移せるものもあれば、まだまだ自分の手元に置いておきたいものなど様々ですが、前を向けると思えるようになった自分が表れてきました。

 

 

 

 

後悔という感情は、ネガティブなものだと思います。

それを自分の中で抱えることで、人は何かを叶えたり、満たそうとしています。

そうしていかないと、という、何かを駆り立てるものがあって、人は様々な表情を見せます

 

それが徐々に幻想だとわかってきたとき、親友の死に目に逢えなかったことや、好きな人に何もしてあげられずにそのまま離れざるをえなかったことなどが、かなり「軽く」なる感覚を覚えました。それはけっして「もういいや」というものでは決してなく、かといって「受け止めた」訳でもない。どう表現すればいいか、その手段がわからないのですが、それを客観的に見ることが出来たのと同時に、もっと力を抜けばいい。そんな風に思うことができるようになってきました。

 

 

 

 

 

 

 

だからこそ。

 

 

 

 

 

 

また逢いたいという気持ちがあります。

前を進みたいという想いがあります。

恥じない気持ちを抱き、ネガティブな感情を持つ必要などないんだという気づきを忘れないことで、再会することになるかもしれない人にとっては、まったく違う人に映って見えるのではないだろうかと思います。それは「あの日」で止まっていたお互いの時間を自然と動かす、幻想を打ち消す魔法のようなものだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宇多田ヒカルさんの歌の歌詞に

 

「前を向いてれば また逢えますか」

 

ということばがあります。

 

 

 

 

つい昨日までは、悲壮感漂う表情の中にこの歌詞がありました。

 

それがなぜか今朝になって、そんなものは必要ないんじゃないかという気づきに至りました。そして午後に受けたワークを経験したら、それが確信に近づきました。

 

いまはこのセリフを、笑顔で言える気がします。

その表情を見たひとは、どう思うか楽しみでもあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一説には、人は眠っているあいだ、様々な存在とコミュニケーションをとっているとされています。

 

しかし目が覚めると、ほぼ一切の記憶が残っていません。

ひょっとしたら、記憶以外のところに残っているかもしれませんが、なかなかそういったことはわからないもののようです。

 

 

 

だけど、奇跡が、起きました。

 

 

 

 

 

 

 

夢のなかで、いっこうくんに逢うことが出来たのです。

それはいわゆる、夢枕という現象だと思います。

 

 

 

 

 

 

 

その場所は、ビルの中にある階段。

よく、エレベーターが使用中で、時間がなくて仕方なく非常口から階段を利用して他の階に向かうことがありますが、そんな場所でばったりと出逢いました。

 

わたしは最初どこに向かっているかもわからず、階段を上っているのか、それとも降りているのかもわからずに、移動していました。

 

そして、折り返しのような場所(中二階のような)で、ばったりと、いっこうくんに出逢ったのです。ほんとにばったりと。まさか、こんなとこにいるなんて、という心境でした。

 

 

 

一瞬、というか、少しの間、わたしは止まっていました。状況が呑み込めなかったのです。

そして、目の前に人がいる。それは誰だろうか。ああ、いっこうくんだ。

 

 

 

 

 

いっこうくん?

 

 

 

いっこうくんだ!

 

 

 

 

彼だと理解できた瞬間、大声で泣きながら彼に近づきました。

そんな彼は、にこにこと笑いながら「しょうがねぇなぁ」といった雰囲気でわたしを見ていました。彼はそれが、何だか少し意外だったようでした。

 

夢の中だけで号泣していたはずだったのですが、どうやら現実界でも寝ながら号泣していたようで、驚いた家人に起こされてしまいました。半ば強制的に彼と別れてしまったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

それでも。

 

 

 

 

 

 

 

わたしの自覚する意識の外で、わたしといっこうくんがちゃんとやりとりしていたこと、やりとりできていたことに安心しました。彼は、わかってくれていたのだとも感じていました。

 

夢の内容が残る、ということは意識してできるものではないようですが、この偶然をわたしは今でもすごく感謝しています。もう二度と逢えないはずの人に、出逢うことができたという奇跡を、わたしは得ることができました。

 

 

 

 

 

 

 

そんな奇跡を得ることが出来たのだから、いまこの世界にいる、不本意にも離れてしまった人と再び出逢うのは、いともたやすいことだと思いたい。

 

 

特段、何を話すということも考えていませんが、

 

 

 

 

 

誕生日おめでとう、だったり

 

よくがんばってきたね、だったり

 

いままでごめんね、だったり

 

いつもほんとうにありがとう、だったり

 

 

 

 

そんなかんたんなひとことでもいいから、直接伝えることによって大きく時間が動くかもしれません。それを奇跡と呼べるかどうかはわからないけど、今の連続で生きることができているからこそ、そんな展開を起こしたいという気持ちでいます。

 

 

 

後悔の鎖、後悔の重石はもう「抱える」必要はない。

 

そう思ったとき、上記のようなかんたんなひとことでさえも、印象が変わります。

 

 

 

 

 

つい先日、わたしはこの先の道のりを「苦しみの海」と表現しました。

 

それが今では「苦しみ」はやはり苦しいと思うようになりました。当たり前ですが 笑。

その苦しみを取り除くだけでも、からだの強張りや表情は大きく軽くなります。仮にそのような状態のままでいても、とてもいいパフォーマンスが出来るとは思えません。それは「違い」を体験することでわかるのですが、一度体験するとわざわざ「苦しみ」とする必要を感じなくなります。それは、鎧を脱いだような、そんな感覚でした。

 

 

 

 

 

 

坂本真綾さんの曲の歌詞に

 

「飾り脱ぎ捨て すべて失くす時 何かが見える」

※間違っていたので訂正しました(20161006)

 

 というのがあります。

 

 

 

 

その境地と言えばいいでしょうか。立派な角があるサイのような佇まいができたとき。

 

わたしが特に何もしなくても、周りが大きく動くと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また逢いたいひとがいたなら、逢うために前を見ましょう

伝えたいひとがいるなら、伝えるために進みましょう

もう逢えないとわかっていても

もう届かないとわかっていても

あなたの想いは相手の知らないところでつながっているかもしれません

だからわざわざ諦めることはありません

諦めるということを行う必要がないのです

だって、生きているならば、生きているうちは何でも起きるのがこの世界です

その中に、奇跡が混ざっていたとしても何ら不思議ではありませんから

ただ、その奇跡が起こることを信じるのではなく

ただ、その奇跡が起こることを待っているのではなく

じぶんが抱く思考や感情に、それ以上のものを足したり引いたりせず

掛けたりや割ったりもせずにそのままを保つことを心がけてください

 

 

 

そんなこと、信じることができないかもしれませんね

 

だからまず、わたしがやってみようと思います

 

それが少しでも、届きますように

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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