集中することで、時間の経過の流れに恩恵が垣間見える。
きょうは午前中にデスクワーク、午後に打ち合わせなどで円山公園周辺へ外出。
途中、北海道神宮に久々に参拝へ。
太陽が出ており、とても暖かく、ときには暑く感じられるほどでした。
神宮の境内も外国人観光客でごったがえし。
神宮にとってはいいことなのだと思うのですが、多少は静かな空間が欲しいとも思ってしまいますね。これは仕方ない。
参拝を終えて境内を出るとき、後ろを振り返ると、境内の木々も少しずつ紅葉を始めていました。今週末はまた気温が下がり、初雪が降るのではというほどの冷え込みが来るそうなので、体調を崩さぬよう気を付けたいと思います。
今日は打ち合わせ先で、つい先月のことがずっと昔のことのように感じたね~という話が出ました。
時間の感覚は、ほんとうに人それぞれかもしれません。
会社勤めしていたときには、休日まであと何回会社に行かないと(笑)という計算をしていたと思います。仕事中も、本当に時間の経過が「遅かった」と感じたことが何度もありました。
しかし最近は、とても「時間の経過が早い」または「時間を感じる感覚が違っている」と感じるようになりました。
例えば
1週間前のことが数か月も前のことのように感じたり
1週間前のことがつい昨日のようのことに感じたり
感覚として残る「時系列」が、事実と感覚では大きく異なっています。
その錯覚というか、実感の背景は自分ではよくわかっていません。
でも、ひとつ言えることは「その日」をどれだけ「集中」して過ごしたか。
みなさんも経験があると思いますが、楽しいことをして過ごすこと、練習などで費やす時間などで「あっという間」に過ぎる瞬間があると思います。そこには「遊ぶことに集中する」ことだったり「練習に集中する」ことが出来ていたから、時間の経過「など」気に留めない環境が出来たのではないかと思います。
ぼくが日々行っている「ヴィパッサナー瞑想」も、集中することが出来なければ、時間の経過がとても長く感じます。15分の瞑想でも、1時間くらいの時間をかけてやったという実感が残るのですが、実際は違うということが何度もありました。
じゃあその違いは何なのか?単純に好きなこと「だけ」やっているからでしょうか?嫌いなこと、嫌なことは時間の経過が遅く感じてしまうのでしょうか?
これに対する答えは「No」だと、感じています。
その理由として、まずは集中の問題です。
好き嫌い関係なく、集中することは大事ですし、求められることでもあります。
注意しなければならないのは、好きか嫌いかという「固定観念」だけで集中するか、しないかを無意識に決めてしまっていることだと思います。
嫌なことには着手しない。自分の好きなことだけやる。
聞こえはいいかもしれませんが、これは自動的に枠を決めてしまうことにつながります。
それはなぜか?
好きか、嫌いかは「その時の感情や思考」によって決めているから。
あまねく、思考や感情は「変化」します。
もちろん、変わらないものもあります。
そこを無理に変えましょう、というのではありません。
変えられるものを頑なに変えようとしないことが、枠だということです。
では好きなことだけやっていてはだめなのか?
現代では、それだけやっていても、ひょっとしたら不都合はないかもしれません。
しかし、それでは自動的に「先」を決めてしまいます。
未知を未知ではなくしてしまうと言えばいいでしょうか。
要するに、知らずに限界を決めてしまうということにつながります。
ここで、考えてみてください。
本当に「好き」「嫌い」はあるのでしょうか?存在しているのでしょうか?
お尋ねします。
その「好き「嫌い」は「幻想」ではないのでしょうか?
まやかしでは、ないのでしょうか?
そもそも、好き嫌いで「選別」することが間違いだとしたら?
好きも嫌いもなく、どんなことでも集中して取り組めば、それは確実に自分にとってプラスになる。
そう導き出したとき、好きなこと「だけ」という呪文は、消え去ります。
逆に言うと、それは自分自身を縛る「呪い」になってしまいます。
ポジティブ思考も、ありがとうだけを言っていればいいというのも、行き過ぎてしまえば「固定観念」に成り下がります。それを自覚しようとも、目を背けるのであれば、それは結局「現実逃避」に他なりません。その他の方法でも言えることですが、この世界にある、わたしたちに起こる出来事は、どんなことであれ向き合わなくてはなりません。そこを取捨選択するようではダメなのです。それを受け止めようとしない人ほど、これから先はどんどん取り残され、自分だけの世界に閉じこもってしまうと思います。
ぼくは最初、瞑想が出来ませんでした。
10分瞑想するのにも、1時間以上の時間をかけていたような気がします。
好きか嫌いでは、判別できませんでした。
辛い。
きつい。
苦しい。
とてもではないですが、そこに楽しさはありませんでした。
瞑想の合宿では、一日のほとんどを瞑想にあてます。
慣れないうちは、集中できないうちは、毎日が地獄のようでした。
最終日まで続けられる自信が、まったくありませんでした。
いつリタイヤしても、不思議ではなかったように思います。
それでも。
最終日まで瞑想を続けました。
ほんの一瞬でも、瞑想のさなかで「集中」することが出来る「瞬間」ができあがるようになりました。
集中すると、1時間や2時間は、ほんとうにあっという間です。
苦手なこと、苦しいことでも、取り組んでいけばこのような結果につながります。
仮にこういうのを「無駄」だとか、自分の好きなことではないからという理由で毛嫌いする人がいるようであれば、それがどんなに素晴らしい人、偉大な人、先生と呼ばれる人であっても、信じるに値しないと断じます。
だって、そのような人ですら「枠」を作ってしまっているのですから。
「枠」は、逃げ場所にもなります。
その「枠」に逃げたとして、成仏できますでしょうか?光の中に導かれるでしょうか?
結局は、逃げて背を向けたことに対して「もう1回やりなさい」というお達しが来るだけだと思います。
人生の課題を残した状態で、そうほいほい行けるところではありませんよ。そんなかんたんで生易しいものではないはずです。
好き嫌い関係なく、やらなければならないときはあります。
その「とき」に対して、どれだけ真剣に向き合うことが出来るか。
その集中の先に「大いなる気づき」があります。
その集中の先に「大いなる成長」があります。
それを果たし続けることが、人間の大いなる魅力につながると思います。
時間が経過する感覚が短かったり長かったり。
それは、過去に取り組んできた「姿勢」がもたらした、集中の度合いに対する未知なる恩恵に他ならないのかもしれませんね。
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