つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

静けさのなかにあったカオス。ほんとうの苦行、真の荒行はここからだった。~ダンマの思い出⑦~

ヴィパッサナーの日を迎え、瞑想の際に集中する箇所を変えることを教えられました。

これまでは「1か所固定」で集中し続ける瞑想であったのが、この日を境に「集中する先」を変えていくことに。

 

口で言うととてもかんたんな表現になってしまうのですが、そのかんたんな表現とは裏腹に、実際の瞑想時はとても大変なものでした。

 

 

 

 

 

瞑想の方法が変わるというのは、前回の日記に書いた通りなのですが、実は呼吸する際に意識を向ける方法が、1日ごとに変わるというのがその日その日で判明し、プチ混乱状態に陥るほどでした(汗)

 

その日教えられた瞑想(特に意識を向ける方法)も定着しないまま、翌日にはまた違う意識の向け方を瞑想中に行うという流れ。これは正直ストレスでしたし、集中出来ない度がMAXになりました。そうなってしまうと、知らずにいらいらしてしまうのです。落ち着かない雰囲気満載になるのです。一気に悪循環が始まる。それを自覚しつつも中々瞑想に馴染めない自分がいました。

 

 

 

そんな中でも、自分を律しよう、せっかくここまで来たんだから、無駄にしちゃあならんという根性のようなものが芽生え、必死で瞑想しました。文字通り必死です。瞑想に必死ということばは不似合いですが、意識下ではいのちを削ってやっているというくらいのものでした。そのため前半とは打って変わって、お腹が空きました。前半の瞑想は振り返ると比較的簡単で、慣れてしまうのも早いと思います。あとは気候とか体調の問題がありますが、よほどのことがなければ調子を狂わすことはありません。しかしヴィパッサナーの日を迎え、終えた状態では、もはや瞑想というものは必死になるものだと価値観が変わってしまいました。この時点で少し慣れてきたころに次の段階に移る、という毎日を繰り返していましたので、これまで川の流れに任せて川下りをしていたのが、船のエンジンを使用しなければならなくなり、それをガンガン使う羽目になったというくらいの変化です。

 

 

 

 

 

 

 

 

こうなったらもう、体力の温存とか、出し惜しみとかはまったく考えなくなります。

つまりは、前半にあった余裕はまったくもって無くなった、ということになります。

しっかり腰を据えてやっていたはずの瞑想が、ここでがらりと変わりました。

ほんとうの苦行であり、荒行が始まった瞬間でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

ここで少し瞑想の方法を整理すると、まず目を瞑ること、そして腹式呼吸という流れは変わりありません。姿勢も前半同様になります。

 

じゃあ具体的にどこが変わったのかというと、

 

 

前半・・・鼻から息を吐いたときにその吐息が肌に触れた感触をただ感じる

 

後半・・・鼻から息を吐くが、吐息が触れるからだの箇所ではなく、その対象を頭頂部から足の先に拡大し、それを少しずつ移動させていく。

 

 

 

という変化になります。

つまりは、呼吸の際に吐息の感覚を感じることに集中していたものが、ある一定の場所を意識し、その箇所が空気と触れている感覚をただただ意識するという流れに変わりました。

 

 

 

そしてその箇所を都度動かす。

実はここがかなりきついと感じた部分で、最初は体を輪切りにした状態で少し広い範囲で感じることに意識を向けていきましたが、それを上から下へとか、下から上へとか。範囲を狭めて、からだをブロック状にして細かく動かしていくとか。感触を感じる場所を1か所ではなく複数個所(相対する場所ではない)に拡大するとか。

 

いま思い出しながら書いていますが、ちょっとげんなりしています(汗)

それだけ、後半は前半とはかなり違った内容になっていたということになります。

 

 

そうやって最終日に向けて、毎日高度な瞑想へと階段を上りました。

夜の講話を聴くころは、もうへろへろで、周りにも寝てしまっている人がちらほらいるくらいで、ぼくも何度か軽く意識を失った記憶があります。講話の内容も満足に入らない。瞑想はしっかりやることが出来ているという実感がない。なんだか消化不良のような悶々とした時間を過ごしながら、最終日を目指すことになってしまいました。

 

 

 

場所を移して自宅ですとか、宿泊先のホテルで瞑想をすることがあります。

その時の感触も様々で、落ち着いてできることもあれば、1分として落ち着くことができないときもあります。その差は何なのだろうと考えますが、その時々によって理由はわかったりわからなかったりします。その原因を「外」に向けることもあります。工事の音がする、車のクラクションが聴こえるなど、外に理由を求めて「だから○○できないのだ」と納得させる場合があります。

 

 

 

 

 

でも、ちょっと考えてみましょう。

 

本当に原因や理由といったものは「外」にあるのでしょうか。

それが自分の「内」にあるとは、考えたことはないのでしょうか。

 

 

ゆっくり考えてみると、自分にそれがあったとわかることがあります。

その際、あなたならどうしますか?

 

 

 

例えば、自分が原因で友人や家族とけんかしてしまったとき。

仕事の段取りがうまくいかなかったとき。

体調が優れないとき。

 

 

 

あまり関係ないことでも、ちょっと、ときには具体的に考えてみると、ひょっとしたらという場合があります。もし仮に自分が原因だったとしたら。自分が理由だったとしたら。そこを見て見ぬふりをしないで、次はそのような過ちをしないように誓うことが大事だと思っています。

 

 

その認識ひとつで、実際に離れていってしまう人はいます。

それを「しょうがない」で済ませていては、ダメだということです。

その人に謝ることはもうできないかもしれません。

だったら、こころの中で謝って、もうそのようなことはしないように気をつけようと心構えればいいのではないでしょうか。

 

たとえ、上記のことではなくても、何かできることはあるはずだと、感じています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

札幌は明日も雪がかなり降るという予報が出ています。

そうなると駐車場や玄関での除雪は必須になってくるのですが、そこにも上記のことを当てはめていけば。

 

そこに「改善」という希望が生まれます。

 

 

 

わたしたちは無意識に闇を嫌い、遠ざける性質を持っていますが、その闇としっかり向き合い、触れていくことで、ほんとうの光や希望というのが見えるのではないかと感じています。

 

 

 

 

 

ぼくが瞑想に集中出来ない原因は、実はぼく自身にある。

そう考えたとき、また一段と瞑想に対する姿勢が深まったような気がします。

 

 

 

 

 

今朝引いたカードはNo.53「叡智」でした。

 

キーワードは「深遠なる理解」「聡明さ」「霊的知識」。

 

 

 

 

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カードの解説にこうあります。

「叡智は、他の人が変化をしなやかにくぐり抜けるのを助け、気づきと無条件の愛を共に作用させる真理のことです」。

 

そこには気づき・受容・優れた知覚や判断・聡明さが含まれるということです。

 

 

 

 

 

原因は、外にあることもあります。

しかし、内側にあることだってあります。

そのすべてを見渡し、受け容れることで気づくことがあります。

 

感覚ではなく、瞬間ではなく、ていねいに感じ、ていねいに考えていくこと。

いまはそれが大事なときなんだと、除雪をしながら感じました。

 

 

 

 

 

 

きょうまでに読んだ本

 

盤上に散る 塩田武士 講談社

養老孟司の大言論Ⅰ 希望とは自分が変わること 養老孟司 新潮社

 

 

 

 

-お知らせ-

 

・オラクルカードリーディングは、3枚セッションが定数に達したため、1枚セッションを含めて一度受付終了としました。

・ガラクタ整理に関するセッションは現在受付停止中です。

・上記により、対面セッションも年内の受付は終了しております。