昨日は久々に歩いたため、今朝は少し遅い時間まで寝てしまいました。
加えて、正座をしていた足を延ばしたときに、足がつるようになりました(汗)
ヤバイ、完全に運動不足です。
昨日は珍しく午前中からサツエキ(札幌駅)周辺に外出。道庁に赴いたり、ステラプレイスに行ったりと、久々に歩き尽くした1日になりました。
夜は夜で「ねおすふらっとカフェ」という催しに参加。
ボランティアでお世話になっていた旧NPO法人ねおすのスタッフだった人たちと、その活動にかかわるひとたちが集まり、交流を行いました。
昨日の札幌は日中がとても暖かく、夜が冷えるという寒暖差がある1日に。
暖かくなってくると足元に注意が必要で、いつもよりは歩くことに気を遣います。
帰宅したときはすでに足がぐったりで(笑)、しばらくだるさが抜けませんでした。
これはいかん!と思ってます。早々にストレッチから始めよう。
とまあ(笑)、年月の経過によって「変化」していくものごとは、日常の中にたくさん出てきます。体調も、仕事も、お金も、人間関係も。挙げていたらきりがありません。
しかし、どのような状況においても、その変化の内容によっては、自分の力で、あるいは他人の力を借りて、打開していく、または乗り越えていくといったことが必要になってくると思います。
それは、わたしたち人間に与えられた「権利」でもあり、また「義務」でもあると思います。そのような表現が適しているかどうかというそもそもの話しもあると思いますが、少なくとも今の世の中では、「何かをしなくてはいけない」「何かをしていく必要がある」というような見方をするのが自然に感じます。
しかし、いまはその流れに逆らう、もしくはその流れを無視する、といったような視点を持った書籍や人が突出して注目を浴びてきています。
昨日、ステラプレイス内にある三省堂書店に立ち寄り、本棚を眺めていましたら、その手のキャッチコピーを多用している本が平積みされているのを発見しました。そのタイトルだけで抱く印象(あくまで個人的です)については、
じぶん「だけ」主義
と表現すればいいでしょうか。
ひょっとしたら本の中身を読めば、違ったことを書いていらっしゃるかもしれないのですが、帯に書かれていること、そしてキャッチーなタイトルから連想すると、上記のようなものに落ち着いてしまうのです。
例文を出すとすると
「自分の笑顔のためには、誰かを悲しませてもしかたない。てゆーかそんなの知らないし」
という、アクのつよ~いものを感じてしまうのです。
おそらく、その背景にはそういったことの対極にあるものごとが重視されてきたのですが、それに「疲れて」しまったから、今度はその逆を行こう!というような感じ。それを助長するような映画がタイミングよく出てきたり、スピリチュアルなことを売りにして有名になる人など、ある意味時代に合わせたキャストが出てきているようです。
ぼくもある種、スピリチュアルを前に出したにんげんのひとりではありますが、そういった「主流」を見ていると、何だか自分のやっていること、やりたいこととは大きく異なる感覚を持ちますし、何より違和感を感じます。そもそもその人たちがどのような経緯からそのような主張をはじめ、広く展開していったかを知らないのであまり何かを言うことも出来ませんが、ほんとうに信じるに値するものなのだろうか???と考えてしまうのです。そのひとたちから比べると、圧倒的に無名な人間が言うのもなんですが(汗)
昨日の日記のなかで、こんな語句を書いていました。それは
今や数多くの人が言っていますが、スピリチュアルは「哲学」だということ。決して「魔法」でもなければ「錬金術」でもない。
これまで届かなかったものが、しっかり行き渡るようになった日。 - とみーのグラウンディング日記
というものです。
その根拠のひとつが、仏陀が語ったことをまとめたとされる「原始仏典」にあります。そこからお経というものに発展(と言っていいのだろうか?)していくことになるのですが、そこでは例えば「成仏」については書かれていません。幾つか読んだ限りでは、「悟り」ということばは出てきても、「成仏」ということばは出てきていません。加えて、ここでは今でいうスピリチュアル的な文言は一切書かれておらず、倫理・道徳のような、現代的なことが書かれているのみでした。
ではなぜ、スピリチュアルや宗教(似たものなので加えます)に、そのようなある種「特殊なもの」があると思われているのでしょうか。根源を見てみると、そういったものはなかったのに、です。
その理由のひとつが、現代に近づくにつれ、信仰の対価(もしくは恩恵)として「成仏」、そして後に「現世利益」が加えられたということ。この「成仏」と「現世利益」は、言ってしまえば根拠のない将来の保証のようなものです。「これは絶対に価値が上がる」と言って勧めている株だったり、投資話のようなものと一緒に思えてしまいます。しかしこれに敏感に反応したのが、スピリチュアルという分野になります。スピリチュアルは知られるところになってきてから、まだ若いです。言い換えると、「土台もまだ固まっていない」状態だと言えます。長い目で見れば、現在もまだ「黎明期」と言ってもいいかもしれません。そのような状態ですから、いわゆる「玉石混合」のようなかたちで、いろんな話が一気に流れ込みました。その混乱は、未だに治まっていない状態です。いや、傷口をかえって広げている状況下もしれません。ニュースにも取り上げられることがたまにありますが、あまりよろしくない意味での「ビジネス」に利用されている現実があります。現代は会社であれ宗教法人であれ、運営していくには資金が必要です。必要なのですが、その手法が悪い意味で巧妙ですし、心理的な効果というものをある程度理解し、活用しているということが言えると思います。
そういった組織や個人が「跋扈」してきているため、却って宗教やスピリチュアルから離れていくひとや嫌悪感を抱くひとは確実に増えましたし、逆にそういったことにのみ解決策を求めるひとが目立ってきたと感じています。
なぜ、スピリチュアルが「魔法」でも「錬金術」でもないのか。
現時点でのぼくのこたえは。
「仏様とか神様とか、サムシング・グレートと呼ばれる、ぼくたちが考える【いちばんうえ】の偉大な存在は、決して【しないから】」。
しかしながら、いま宗教家やスピリチュアリストを名乗る人の多くが、この偉大な存在の名前をかんたんに口にし、じぶんの想いに応えてくれると言っています。それはぼくが見る限り、決まって「個人的な」願いや幸せなどに限られています。
たぶん、誰かがこのような疑問に答えているかもしれませんが、皮肉を込めて言えば
「個人の悩みや願い、幸せに対して偉大なる存在が呼びかけに対して動くのであれば、なぜ多くの人が願う戦争や紛争などの終焉といったとても大きな問題に対しては何のアクションもしないのだろう」
という、素朴な疑問を、実はいうと結構前から持っています。
それに対する反論もありそうですが、少なくとも「とても小さな範囲」でしか展開されておらず、またその移り変わりも素早いので、信用を置くには難しいという見解でいます。
ちなみに現在のぼくは、どの団体(組織)、そして個人の下にも就いていません。
だからこれだけのことが言える(汗)、という訳でもありませんが、一定の宗教やスピリチュアルに接してきて感じたことがあったので、今回少しでも書いていこうと思いました。
なんとなくなのですが、ひとは悩み事やこうなりたいということに対して、魔法のような一瞬の出来事のような感覚で、解決される、または叶えられることを望んでいるような気がしています。それを裏付けるように、路線が外れてしまいますが、宝くじが当たったり、白馬の王子さまが表れたりと、自分は労力をかけずに期待以上の効果や展開を求める風潮がだんだんと強くなってきていますし、それを助長、もしくは肯定するような人まで出てきている状況です。
仮にもし、スピリチュアルがこういった問題を一瞬にして解決する力を有していたならば、そもそもわたしたちにんげんが長い時間かけてしっかりと「生きる」ということに疑問を抱いてしまいます。もし、ある特定のスピリチュアルを実行することで「確実」に何かが実現するとなった場合、多くのひとたちは、努力を捨てるでしょう。じぶんの労力を、すべて「スピリチュアル」に注力することになってしまいます。そうなるとどうなるでしょうか。生活のバランスが変わり、価値観が大きく変わります。基準が変わり、信念が変わります。そして大いに「依存」が生まれることになるでしょう。そうなった場合は、個人としての才能や力量はほぼ骨抜き状態になることでしょう。そんな姿になったひとたちを、わたしたちはどこかで見てきたはずです。信仰の「自由」はもちろんありますが、「自由」の本質を知り、また「自由」のなかにも「不自由」はあるし、その逆もあるのだということを、心に留めておいたほうがいいのではないかと考えます。
神さま、仏さま、サムシング・グレートといった「大いなる存在」がもたらす「天の采配」または「天の計らい」。
それは決して、自分に都合の良い、プラスになるためだけの「スピリチュアル」がもたらした「魔法」や「錬金術」ではない。
いつの世も、そしてこれからも、にんげん自身がしっかりと「動いた」ことによる「波紋」が生んだ、次なる展開に他ならないことを、どこかで感じることが出来ればと思っています。
以上はぼくの夢想のはなしの、一部です。
きょうまでに読んだ本
アウトドア緊急対応マニュアル 藤原尚雄/堀内一秀 枻出版社 (58)
伝え方が9割 佐々木圭一 ダイヤモンド社 (59)