がらくた整理は。
きょうまでに約10kg、70点近くに及んだ荷物の発送がひと段落しました。
それらの荷物はかつて自分がコレクションしていたもの。それはそれは大層大事に保管していました。
過去記事(この時点から少し増えています)
これを「手放す」と決めた大元のきっかけは、現在も続けている「がらくた整理」。
増やすことによる安住ではなく、減らすことによる安定をこの身と心で学びました。
モノは、際限なく増えていきます。
だから、手放すという動作も、限りがありません。
つまりは、掃除や料理同様、日常の出来事の様に行われるべきものではないか、と感じています。
春が近づいているせいでしょうか、テレビや雑誌などでは、「収納」に関する特集を見かけます。それに合わせてその道の有名人がイベントに参加したりなど、各方面で表に出ていらっしゃいます。
正直言いますと、その活躍が羨ましいですし、ぼくも認知されたいな、と本音で思います。でも、ぼくが目指しているものとは何か違うと、感じてしまいます。
減らすことも、そして収納も、どちらも大事です。
でもなんとなくなのですが、「収納」にばかり、焦点が当てられがちになっているような気がしてなりません。また、「減らす」ことに対する解釈の大切な部分をカットし、都合のいいような言葉だけを並べているように見えます。だからという訳ではないと思いたいのですが、結果中途半端な整理整頓になるのではないだろうかと、想っています。
きょう、荷物を発送した後に飛び込んできたことばは
「がらくた整理は、究極のDIYのひとつ」
だということ。
今や代行サービスはこれでもか、というくらいにあります。いっそのこと頼んでしまうことも出来る時代。しかしそれでは「結果」のみを手に入れる「だけ」。なんとなくですが、その「結果」だけを手に入れれば、幸せになれる、充実した生活を送ることができると考える人が多くなってしまったように思えます。それは、会社における「結果主義」というのが、少し独り歩きしてしまったのだろうと考えています。
「日曜大工」ということばがあるように。
自分で何かをする。やってみる。という、結果ではなくプロセスを見て行うことも大事だと、ぼくは伝えたいです。もちろん、プロセスだけでもだめです。結果だけでもダメです。ひとはたぶん、どこかで安易な選択をすることによって、とても大切なものごとを「見落として」しまうのではないかと思います。それはひとによってそれぞれ違いますから、これだということは言い切ることは出来ませんが、いま見えるこの社会や世論、あるべき姿勢などを考えていくと、たとえ反発したとしても、その重要性は否応なしにわかるのではないかと思います。
きょうの午後、バッグいっぱいに荷物を詰めて発送に出向きました。
ひと段落ついたと思った瞬間、「まだ」減らせるものがある、と確信しました。
途中経過。そして・・・
箱が空になりました(すべて落札されました)
無理くりな表現ですが、「悟り」は一度開けばいい、というわけではありません。何回も「悟り」は開かれるし、開かれる必要があります。がらくた整理を「自分自身で」行うことによって、いろんな考え、そして新たな発見を見出す。このプロセスがあってこそ、「しあわせ」ばかりを求めていた「人生の結果」に、ひとつの大きな風穴を開けるのではないかと、考えています。
最近は書類の作成ばかりで、あまり文字を書く気持ちが起きなかったので、恒例のモノを持ってこようかと考えたのですが、いざ書いてみると一気に書き上げてしまいました。まだまだ、自分で自分のことをよくわかっていないようです(汗)まずは書いてみる。これもまたDIYだなと思いました。