「卒業」を都合のいいように使うひとたち。
ニュースでは卒業を伝える内容がここ数日流れています。
その中では、最後の卒業式など、閉校や募集終了に伴う最後の生徒を送り出すといった、時代の流れを映し出す光景が出てきます。その内容はなんとも寂しいのものですが、その志を受け継いでいく人たちは、多いことと思います。
そんな中で、いろんな物事を対象に「卒業」という語句を用いるひとがいます。
ここで本来の「卒業」を辞書で調べてみると
卒業(そつぎょう)は、学校の規定の全課程を修了すること。(Wiki)
とあります。
つまりは、「必要なことはすべてやり切りました」
という意味合いになると思います。
しかしながら、ぼくの周りで「卒業」を使う人は
「結婚を卒業した」
「●●のサポートから卒業した」
「○○に参加することを卒業した」
など、いろんな物事に当てはめています。
意味合いはなんとなくわかるのですが、使い方としてはなんとなく現代的。
だからといって、それが「正しい」使い方か?と言われれば、クエスチョンマークがつくのです。
卒業という語句を用いている以上、「そこには戻らない」「戻る必要がない」という意味になります。なぜなら、そこで必要なことは「すべて学んだから」。しかしながらそういった本来の意味すら「理解」せず、安易に、時代の波に乗っているかのような、安直な使い方をしているひとが目立ってきています。
しかも、そういった使いかたをする人に限って、「スピリチュアル」に依存している人たち。「天の采配」とか「サムシンググレートの思し召し」などと言っては、自身の行動を肯定します(絶対に否定しません)。
そして面倒くさいのが、卒業と言っておきながら、また同じようなことを始めるということ。それも自己都合の解釈で「必要なこと」と言い切ります。ここまで来ると、何が基準なのかはわからなくなります。それは結局はお金であったり、寂しさを埋めてくれる人であったりと、自分の信念を「かんたんに」捻じ曲げる要因があります。
こういったひとたちをわからせることはできないのか?と過去、考えたことがあります。
それも、かなり真剣に。
いろいろ手を尽くしたこともありましたが、そのほとんどは見込みなしでした。
返ってくる返事の内容は
「あなたはそう想っていればいい。わたしはこの道を進むから」
と言い放ち、周りの声に耳を傾けず、自分に素直に生きているんだ!というさまを見せつけていました。
この姿を見て、愕然としたこともあります。無力感を感じたこともあります。
否定されたと感じたこともあり、かなりささくれ立ちましたし、苛立ちました。
しかし、そのよう無責任(だと言い切ります)な振る舞いを見せられたからこそ、ぼくは逆に「火」をつけられました。その具体的な行動のひとつが、がらくた整理による「革新」だと信じています。
いまのぼくの姿を、卒業と言うことばを多用したひとたちが見たとしても。
おそらく、何も感じることはないかもしれませんし、自分の非を認めないかもしれません。
かえって「ありがとう」という、的外れなことばがかえってくるかも。
宗教やスピリチュアルに限らず、いろんなものごとに「妄信」してしまうひとは、今の時代にはたくさんいます。自分が「正しい」「信じるに値する」といったん決めてしまうと、自分の「過ち」の可能性を、見向きもしようとしません。結果、相手を責めます。
自分自身はそれでいいかもしれません。今のうちは。
その行動の展開がもたらす「歪み」をたとえ知ったとしても、自分の行動によるものだと理解せずに神だとかいろんな存在を持ち出しては、その存在がもたらしたことだと責任転嫁するでしょう。
こういった姿を見てきたから、ぼくは個人で進むことに決めましたし、個人で鍛錬することに決めました。
仏、諸天善神、弥勒さま、バガヴァンやいろんな組織の人、指導者などを最高位として信仰するのは自由です。が、それが正しいかどうかはまったく別の話です。それをわかることがないと、「無自覚の悪意」によってあらゆるものを遠ざけることになるでしょう。それを自覚するタイミングは決して「自分以外の誰か」によってもたらされたタイミングではありません。それをわかることがあればいいのにな、と、想っています。