きょうは朝から暖かかったようでした。
朝食を食べていると、ベランダのほうで何か横切る影に気づきました。
なんだ?と思って視線を向けると・・・なんと「ハト」。
ハトは大通公園や道庁赤レンガなど、人の多い場所にいるイメージがありますが、住宅街でもたまにみかけることがあります。それが自宅のベランダにあらわれたことは少々驚きでもあり、なんだか歓迎できる出来事でもありました。
トコトコ
この地に引越してからそれなりの年月が経過しようとしていますが、だんだんとこ土地が好きになっています。そしてご近所づきあいも広がってきていることを見てみると、だんだんとこの土地に「馴染んできた」ということを実感します。
これまでベランダに何かしらの鳥が立ち寄る?ということはなかったのですが、去年くらいからひなたぼっこなのか、単なる羽休めなのか、ベランダに姿を現す鳥が出てきました。単純に「そういったこともあるのかな」と捉えていましたが、きょう行ったなんてことない行動を通して、変化というのに気づかされることとなりました。
そのなんてことない行動というのは、部屋の掃除です。
単純に、部屋全体に掃除機をかけました。
我が家の掃除は1週間毎に実施しています。だいたいそれくらいの感覚で、視覚的にも感覚的にも部屋が変わってきます。
意外とゴミは出るもので、ホコリを中心にしたゴミが少しずつ増えていきます。食べ物が下に落ちてそのままであったりなど、直接肌に触れてはじめてわかる汚れもあります。掃除自体はそんなにきっちりやっているわけではなく、やれるときにやるということと、やるときは出来る限りのことをやることを肝に銘じています。
ひととおり掃除が終わり、夕方にデスクの椅子に座ってテレビを眺めていたら。
あれ?なんか広く感じる・・・・・・
目で見て得る広さと、感覚で得る広さに違いがある。
感覚で得る広さには「壁」がない。もっと広く感じる。
なんだろう?この感覚。
これまでに感じたことのないものでした。
遮るものがない。
抑えられている感覚もない。
ああ、フリーだ。フリーなんだと思いました。
これまでに感じたことのないものだったので、不思議でしょうがありませんでした。
これも、がらくた整理を続けてきたからかも。
確かなことは言えませんが、色んな恩恵をもたらしてくれているように感じてなりません。
がらくた整理は、単純に「減らす」作業ではない。
これは既に、たくさんの有名な方が語っていることです。
だから、「減らす」ことだけを目的とした場合、その効果は十分に得ることが出来ない場合があります。最近、そのようなケースを感じることがあり、がらくた整理の奥深さを知るきっかけになっています。
何かが変わった。
そう感じるひともいれば、何も感じないひともいます。
その違いは何なのか。ケースが分かれてくるので確実なことは言えませんが、イメージとして持っているのは「結果」だけを求めていること。単純に「減らした」「きれいになった」「すっきりした」というものだけを求めていてはダメなのだと、自分が実践して、そして幾つかの本を読んで感じました。
変化に気づくことを、怖れているひとはいます。
それは状況によっては保守的ともとれるでしょう。または、単に変わっていくのが「怖い」と言うこともできます。変化が何かを壊す。そう懸念するひとは少なくありません。それが、細かいところの変化に気づく力を鈍らせているんじゃないかと思います。
雪が融けてアスファルトが顔を出した。
花の芽が土から出てきた。
鳥の啼く声がにぎやかになってきた。
そういった変化にも気づかないひとは、かわいそうだと思います。
そういったひとほど、視野が狭くなっているようにも感じます。
よく、変化は、外側から起こしてもらうのを「待っている」ひとがいます。
しかし、外側からの変化に対する反応がどんどん鈍くなっていく事実を、そのひとは知りません。最初は些細なことでも受け容れることができたのに、次第にそれでは満足できなくなります。物足りなくなります。そして、それは違うと判断します。もっとわたしにふさわしいものが来るはずだと、違った基準で選ぼうとしてしまいます。
変化に気づくことを自分のなかで起こすことができたとき。
とても小さい力で、世界を変えることができます。
労力としては、やはり外からのアプローチのほうが楽なのでしょうか。
ただそれは、かなりな遠回りになるかもしれません。
思いがけず起きたハトの訪問。
自宅を掃除後に気づいた、空間の広さ。または果てしなさ。
それは、自分が変化をしっかりと感じ取れていることの証明にほかなりませんでした。