つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

目的として、目的とせず。

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「目的」や「目標」。

 

誰もが一度は定めたことがあり、達成したり、達成することが出来なかったりするものです。

 

漠然としたものであることも、明確に出来ているものもあったりします。

 

これを据えておくことで、やる気が出たり、継続性が生まれたりする中、早々に挫折したり、絵に描いた餅になってしまったりもします。

 

 

 

 

ときに、目的や目標は「夢」のように扱われることがあります。

設定したものの大きさに「どうせ」という単語がつき、その設定を本人ではなく他人が我が物顔で評価します。そんな淘汰を経て、地道に続けてきた者や情熱を持って続けてきた者が、はじめて到達するということもあります。

 

 

現実的なことでも、非現実的なことにおいても、目標や目的は設定されます。

売上、契約数、対応数、ノーミス、クォリティのほかには、こんな生活、あんな生活、資金の援助や出逢いなど、緻密に設定されたものから漠然としたものなど、実に様々です。

 

他人に設定されるもの、または自分自身で設定するもの。

他人のチェックが入る中で設定せざるをえないもの。

 

 

 

この世界では、いたるところに「目標」や「目的」が溢れています。

 

 

 

 

到達に向けての動き、または努力と言うのは、以前は「がむしゃら」というイメージがありました。無我夢中でやる。そこから成功も失敗も両方学び、洗練していくというものです。極端ではありますが、そこから人間国宝のようなひとや企業家など、傑物がたくさん現れました。その背景には徹底した追求、追い求める心があったように思います。

 

 

ただ、現代になると、少し違った様相を呈しています。

「最短距離で到達したい(遠回りはしたくない)」

「失敗は必要だけど、知らないところでやってくれ、わたしは責任を持てない」

「(かたちだけの)失敗はしてもいい」 ※失敗したら責任を追及されるパターン

 

何故か、失敗を恐れているというよりも、フタをするかのように「見ないフリ」をしているように感じます。

 

 

それは社会の風潮として

「失敗」=「仕事を失う」

 

に等しい評価、もとい罰が下されてしまうからだと見ています。

 

 

政治の世界や企業、社会的な分野にまで、失敗に対する責任の追及はかなりきついところまできています。戦争責任など長年追求されるといった国際的なものも中にはあり、表だって「敗者(失敗した者)」を徹底的に排除する、という動きになっているようです。

 

これではいけない、と、これまでにも学者や研究者が発言をしてきましたが、感情論などもあり、この傾向は減少するどころか、主流になりつつあります。誰にでも間違いはあるものですが、社会はその間違いに関して「寛容」ではなくなってしまいました。逆にそれをエサにして、利害関係を築こうと考えるひともいるくらいです。ドラマか映画のような、世知辛い世相と言うものが確実に現代社会にも反映してしまっています。

 

 

 

よく、ビジネス系の書籍を読むと「トライ&エラー」ということばが出てきます。

 

最初は出来なくてアタリマエ。何度も繰り返し練習して、自分のものにしていくというイメージでしょうか。エラーで生まれたものも、検証の材料としては価値のあるものです。ただそれを「結果」だけで見てしまうと、その材料すら見向きもされません。成功例にばかり目が行き、偏りが生じます。それはそれでいいのかもしれませんが、そこに疑問が生まれたとしても、考える時間すら与えられなくなります。そして大転倒(大失敗)したときに良ければ気づくか、悪ければ責任転嫁をしてしまうでしょう。

 

 

 

なんとなくですが、この世界の大きなトレンドとして「目的」や「目標」しか見ておらず、中々その周囲に目を配る、気を配ろうとしないようになってきたのではないかと見ています。もちろん、ゴールをしっかりと見据え、意識して取り組むというのは必要なことなのですが、「見すぎ」てもいけないのです。仮にそこまでの道を一直線とイメージしながら行動したとしても、実際は障害などで時間がかかるケースがあります。そして周りを見渡すと、直線距離と比べると遠回りではあるものの、スムーズに進める道があったりします。そういった状況の把握が出来ない、またはしないまま、その地点にそれこそ「突き進む」ことしか出来ていないのです。よく「柔軟に対応」ということばが呪文のように出てきますが、個人の裁量で行うと叱責を受ける場合が会社員であればよくあることです。そのため、そもそも柔軟になることすらできなくなってしまいます。柔軟とは名ばかりのような体制のままでいることが、実は多いのではと感じています。

 

 

 

 

目標や目的をしっかりと定めて、しっかりと見ることは大事です。

しかし、それらを意識しすぎないこともまた、大事なことです。

意識し過ぎたがために、大事なことを見落とす、というのはありえる話です。

周りはいち早くそこに行け!と言うかもしれません。しかし、それが「すべて」ではないし、「正しいとは限らない」と、ぼくは思っています。

 

 

挑戦は必要です。

そこから生まれる成功は大事です。

しかし、失敗は成功以上に大事なものをもたらすと、大企業の経営者は語ります。

 

 

 

「失敗するな」は、単純に言えば目先の評価を気にするだけのものになってしまったのかもしれません。そう考えると、成功するための方策ばかりではなく、失敗したときのリカバリーに関してもしっかりと構築し、失敗を恐れない風土を築いていくことが、風穴を開けることにつながるのではないかと思います。

 

 

 

成功も、失敗も、どっちも経験するのですから、片方だけというのは、アンバランスです。

 

もっと、目標や目的を見やすくすることが出来る環境を創る。または、自分自身がそう意識する。

 

 

 

そうしていくことで、少しずつ得るものが変わってくるんじゃないかと、ぼくは考えています。