つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。このたび不定期更新に切り替えました。

80:20の法則(パレートの法則)を改めて体験する。~役目の終わりに気づくこと~

ゴールデンウィーク、真っ只中です。

 

 

 

ぼくは一足先に道南・森町と七飯町を訪れてきました。

平日の移動であったため、高速道路も一般道も大きな混雑はなく、スムーズに移動することができました。昨日混雑状況を見てみますと、高速道路でも最低2km、最高で約20km近くの渋滞が起きていたようです。またこういった時期に目立つのが「逆走」で、この事象が発生してしまいますと、高速道路が通行止めになります。逆走する側の心理はわかりませんが、たとえ「路肩」を走っていたとしても決して安全とは言えません。高速道路でのイレギュラーは重大事故につながる要因を過分に含んでいます。ついついアクセルを踏みがちになりますが、安全運転で目的地へ、そしてまた安全運転で自宅に戻って欲しいと思います。

 

 

 

f:id:maruyamabase:20170504212040j:plain

カヌーのアクティビティを体験。その先には駒ヶ岳

 

 

長距離移動のお供として、ラジオやCDで音楽などをかけることがよくあります。

これまで「整理棚からひとつかみ」として掲載してきたアルバムたちの大半も、この長距離移動の中で聴き、その時に抱いた印象をメモ感覚で書き留めてきました。

 

 

今回の移動は札樽自動車道から道央自動車道に合流し、道南側終点の「大沼国定公園」までとなっており、片道ゆうに300kmを超える移動となりました。最初は2車線だったものが、登別あたりから1車線に縮小、制限速度も抑えられつつ、初夏の陽気に誘われながらひたすら車を走らせました。

 

 

 

 

 

途中、黒松内ICから市街地に向かい、道の駅で昼食。

そしてまた高速道路に乗り、目的地を目指すというまさしく「移動」の1日となりました。

 

 

 

移動時間だけでも軽く4時間越えとなるため、楽曲に事欠かない状態で臨むことに。

今回選んだ音源は、先日ふと見つけた「長いこと聴いていない音源」でした。

 f:id:maruyamabase:20170504212156j:plain

 以前はコレが3つ4つありました。

 

ぼくが持っているCDの中には、レンタルCDを個人的な視聴用にコピーしたディスクがあり、ある種コレクションのようなかたちで所持していました。これも実は過去のがらくた整理で大幅に減らし、「これは残したい」というものだけを置いておいたのですが、その整理から再び手に取るまでのあいだ、実は1度も聴き直してはいませんでした。

 

本来ならばこの時点でがらくたとして手放すこともアリだったのですが、では実際にこの中で「必要なモノ」、つまりは「今後も聴きたい曲」はどれくらいあるのだろう?という疑問が浮かんだため、事務仕事や長距離移動の際にせっせとディスクを回し、聴き続けてきました。

 

 

 

 

結果。

 

 

 

60枚あったCD(実際はCD-R)のうち、今後も聴きたいと思ったのは「1枚と2曲」のみ。

割合にして、ほぼすべてのCDに関して「不要」という判断を持ちました。

 

 

f:id:maruyamabase:20170504212242j:plain

これだけのものを・・・

f:id:maruyamabase:20170504212311j:plain

1枚ずつ聴いていき、バツ印をつけました。

 

 

 

 

以前はとっておくほど好きな楽曲ばかりだったのですが、時間が経過してみると意外にもその気持ちが継続していませんでした。それは一体なぜだろう?と考えてみたところ、以下のような考えが浮かんできました。

 

 

 

「賞味期限」が過ぎた、もしくは「こころゆくまで堪能した」。

 

 

 

つまりは、ぼくの血となり、肉となった。

と表現すれば伝わるでしょうか。

 

簡潔に言えば「ぼくの一部になった」。

 

 

 

 

楽曲に限ったことではありませんが、何かしら感動などする作品と出逢ったとき、繰り返すという行動が生まれます。それらを自分の中に「取り込んだ」ときに対する反応が、最初は顕著であったものが、回を重ねるごとにどんどん薄れていきます。また何かしらの経験を踏まえたあとに再びそれに触れると、再び新鮮な反応が返ってくることもありますが、それがずっと続くかというと、中々そうはいかないようです。時間を再び置いたうえでそれに触れても、「懐かしい」と思う程度で、それを手元に置いておきたいという感情とは別の位置になります。そうやっていつしかそれらに対する「想い」も薄くなり、同時にそれらからもらう「エネルギー」も少なくなります。

 

もういっぽうで起こることは、その人の「成長」が挙げられると思います。場合によっては成長と感じることは難しい場合もありますが(汗)、少なくとも「変化」は起きているはずです。その変化に、モノはついていけなくなる。楽曲という作品は完成された時点で「変化」というのは止まります。しかし、わたしたちは常に変化しているいきものです。仮に好きな曲を毎日毎日聴いていたとしても、いつか聴かなくなるときがくる。それは単純に「飽き」という理由かもしれませんが、裏を返せばその歌から「エネルギーを吸収」し、変化を遂げたからという言い方もできます。

 

 

 

わたしたちは絶えずいろんなものからエネルギーをもらっています。

そのことだけは、自覚していたほうがいいような気がします。

 

保守的であることがダメだとは言いませんが、自分の中の変化を起こさず、自分の外にのみ変化を求めるというのは、究極の逃避だという感じがしています。それは結局、いろんなことをやっていたとしても「わかっているようでわかっていない」のと同じ。もしくは、自分を観察するのが苦手を通り越しているということもできそうです。

 

 

f:id:maruyamabase:20170504212432j:plain

きょうの夕方、札幌市にある琴似発寒川にある公園で撮った桜。

桜も季節の流れに併せて「変化」しています。

ずっと咲いていたとしたら、飽きてしまうかもしれませんね。

 

 

 

 

過去のがらくた整理で残しておいたCD-R。結果、そのほとんどを今回がらくたとして手放すことになりました。必要なものであれば日常的に使用していたことでしょうし、この結果は当然なのだと思います。その範囲を広げていくと、一体現状でどれだけのがらくたが出ることでしょうか。去年1年は手放すだけ手放したはずなのですが、どうやら今年は今年で1段階上げて手放すことになりそうです。

 

 

 

 

 

がらくた整理は、ただモノを捨てるだけではダメ。

モノとつながるメンタルにも視線を向け、両方の整理をすることが大切です。

 

モノを捨てることで後悔することもあるでしょう。

でも、後悔を避けていては、何もできなくなります。

人生は、トライ&エラーの連続です。

エラーがあるからこそ、後悔しないために本気になることができるのではないでしょうか。

 

 

 

年齢や気持ち、環境などは、まったくもって関係ありません。

モノと、メンタルと本気で向き合うことで、空いたスペースには爽やかな風が舞い込んで来ると、わたしは信じています。

 

 

 

 

 

 

きょうまでに読んだ本

 

天来の美酒/消えちゃった アルフレッド・エドガー・コッパード 南條竹則:訳 光文社古典新訳文庫 (135) ※月イチ古典
コーヒーと一冊 木のみかた 街を歩こう、森へ行こう 三浦豊(森の案内人) ミシマ社 (136)
コーヒーと小説 庄野雄治:編 ミルブックス (137)