つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

マイナスだって、必要だ。

きのうは蒸し暑く、きょうは一転過ごしやすい。

 

 

天気と気温に左右されがちな週末になっています。

 

 

きのうは何故かイライラ、そしてダラダラ。

自分でも理由はわかりませんでした。

 

 

 

そんな不真面目(たまにはよい)さを醸し出しつつも、あれこれと家事をこなしていました。

 

 

先日、ドラッグストアで湿気取りを購入していたので、水が溜まっているものを交換。

前回の交換が確か3月だったので、そんなに交換するものはないだろうと思っていましたが、これが大きな間違いでした。

 

 

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湿気の水取りは合計で6個購入。

そして、満杯になっていた水取りは、予想を上回る7個 汗。

 

今年はここまででかなり湿気を感じていたのがよくわかる結果でした。

 

 

湿った空気に含まれている水分を見ることは出来ないけれど、こうして何かを通して集めた際には、物質として見ることが出来る。それって不思議だよなぁと思います。

 

 

そして、これだけの数の容器を目にして思ったことは、「勝手にたまるものは、ある」ということ。それはわたしたちが意図していても、意図していなくても、こちらの都合に関係なく、増えていくものはあるということでした。

 

 

 

 

  

勝手に増えていくものはと言いますと、

 

ホコリ

汚れ

湿気(水分)

カビ

 

などで、ほかには

 

脂肪 汗

期限切れのもの 汗汗

 

 

があるかな。

 

 

 

共通していることは、「なかなか見えない」こと。

何かひと工夫をしないと、これらは姿を現しません。

これまで見えなかったものが、ある日突然、現れます。

 

そんな事象を考えると、わたしたちは自分が意図しなくても増えていくものはあるのに、意図して増やしていくものがあるのだから、とても不思議ないきものだ、と感じてしまいます。

 

いや、ぼくも意図して増やしてしまっているものはあります。

いまは「本」。読み終った本も、これから読む本も含めてです。

それ以外は、少しでも減らしていこうと努力継続中です。

 

 

 

昨日はあまりの蒸し暑さにキモチもカラダも落ち着かず、活動らしい活動はしなかったため、比較的過ごしやすい今日に家事のあらかたを済ませました。

 

 

 

掃除機をかけてホコリを確認。

トイレを掃除して汚れを確認。

明日出すゴミをまとめ、他の曜日のゴミもまとめて。

自分が動かないと、「増えたモノは減らない」ということを、改めて噛み締めました。

 

 

ひとは、自分の意思でモノを増やす生きもの。

少なくとも、現代ではそうだと言い切れます。

目に見えるものも、見えないものも、増やしていったり、増えていったり。

 

「揃える」ことが、ひとつのステータスとして見られていた時期があったように思います。

 

 

 

反面、これに対抗するかのように「持たない」ことにフォーカスが当てられています。

「減らす」ことと「持たない」ことは、似ているようで、なんだか違う。

良いようにも思えますし、そうではないようにも見えます。

 

 

 

増やすことによって得られる満足感と、持たないことによって感じられる安心感。

それは似ているようで、まったく違う感覚だと思います。

 

ぼく個人としては、その2つの立場を経験しています。

どちらがいいの?と聞かれますと、「持たない」ほうがいいと答えます。

しかし、「持たない」ということばは、いまは用いないと思います。

 

持たないことにも、限度があります。その度を越えてしまいますと、一気に意味合いが変わります。限度を超えると、いいと思っているものが逆に自分を苦しめます。その可能性を知っておくことは、必要だと思います。

 

 

 

写真にある湿気の水取り。そこに入っていた水はゆうに3リットルを超えていました。

知らずに家の中では、3リットルの水を溜めていたということにつながります。

仮に水を溜めていなかったとしたら、分量はイコールになりませんが、カビなどの汚れが増えていくでしょう。家の性質によって、増えていってしまうものの傾向も、大きく変化していくことを感じていました。

 

 

 

がらくた整理は「減らす」ことを目的としています。が、減らすことが大事だという前に「増やした」先の状況を、お互いが知る必要があります。増えて困ったという状況を体験していませんと、減らすことの重要性を説いても、のれんに腕押しだと思います。

 

 

増やしていったことで得られたもの。

反面、減らしたことで感じるもの。

 

これは、体験することでしか導き出すことは出来ないと思います。

 

 

 

 

 

 

昨日夜遅く、北海道で地震がありました。

震源地は内陸で、震度も大きいです。

その後、遠く離れた九州でも地震があったようです。

 

 

 

実はその前に、その日の午後スコールが降りました。

 

その前後からでしょうか、自分の両腕、手のひらから肘近くまでの範囲が、なぜか「ピリピリ」または「チクチク」するのです。

 

いままでに感じたことのない症状であったため、数日様子を見ても改善しない場合は、診察を受けようと考えていました。

 

翌朝起床してから両腕の様子を見てみると、前日の不快感はかなり治まっていました。今でもほんの少し、ピリッとはするのですが、前日から比べるとはるかに症状が小さいです。これと地震とをつなげるのは浅はかではありますが、何だかつながっているような気がしてなりません。今回の揺れも「グラグラ」よりは「ドスン!」といった感じの揺れで、印象としては大地が「ああーもうっ!!!」と、少しイラついているかのような印象を受けました。

 

 

 

 

 

 

この文章を書いている途中で、話題の中学生棋士の連勝がストップしてしまいました。

 

世間は連勝記録というところを見ていたのかもしれないですが、本人は連勝記録ではなく、やはりタイトルを見ていたような気がします(それが当たり前かもしれません)。今回は負けてしまいましたが、この負けは大きな負けであったと感じています。大きなというのは、もったいないという意味ではなく、成長に大きく関わる、必要なものであったという認識です。ひょっとすると、同じく天才と言われている相手棋士はその後、彼に勝てないかもしれません。それほどの経験を、きょうこの日、ふたりは体験したのだと思います。

 

そう考えますと、一時の負けは必要以上に引きずるものではないのだと学ぶことができます。ぼくはひきずりまくりですが・・・汗。

 

 

 

ただ、その負けから学ぶことはたくさんあるわけです。そこからどう動いていくかは、やはりそのひと自身にかかっています。負けたことがきっかけで逃げていては、大きな課題の解決にはつながらないと思います。勝利だけが必要なものではない。プラスのことだけ求めていると、予期せぬマイナスに思わぬ深手を負うことになる。

 

 

 

将棋にしてもがらくた整理にしても、共通するところはあるのだなと思いました。