つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。このたび不定期更新に切り替えました。

「増やす」ことは、中毒に似ている。

昨日より気温が5度ほど低い札幌。涼しいを通り越し、肌寒い1日となりました。

 

きょうは苫小牧市方面へ車を走らせていたのですが、時折陽射しが見えたので、曇りの予報だったけれどこのままだと晴れるかな~と思っていたのですが、予報よりも早く雨が降ってしまいました 汗。

 

 

写真をと思ったのですが、すっかり撮り忘れてしまいました。

未だ写真を撮る習慣が身についていません。

 

 

 

 

 

 

仕事を済ませ、用事を済ませ、先ほど帰宅して荷解き。そしてゴミのまとめ。

今週は各曜日のゴミが少し多めにまとまっている状況です。

 

 

おおきいものを3つ4つと、朝方ゴミステーションへ持っていく。

そのときなぜか、清々しさを感じます。

 

 

 

我が家の部屋のひとつは、クローゼット兼荷物置き場になっています。その荷物も必要以上に置かないという基準を決めています。普段その部屋で生活することはほぼなく、作業部屋として使ったり、冬場に自転車などを保管していたりします。つい先日まではこの部屋に「漬物樽」があり、やっと洗浄して屋外にある物置に収納しました。それをきっかけに掃除などを少し入念に行い、ごみをまとめてみたところ、意外にも多くのごみがまとまりました。

 

 

 

ゴミステーションへのゴミ出しは毎週決まった日に出していますが、思えばこのゴミ出しですら、以前は「面倒」と感じていたように思います。ゴミ出しに間に合わず、翌週、そのまた翌週まで自宅に置きっぱなしだったことも、何度もあります(生ごみも 汗)。そんなとき、じぶんはどんなことを考え、感じていたのだろうと考えていました。

 

 

 

たぶん。

ゴミを出すことすら面倒に感じていたのだから、出し忘れとか間に合わなかったときとかも、かなりネガティブに感じていたことと思います。

 

言い訳の宝庫?

それとも責任転嫁?

 

 

 

何となくですが、自分に責任を負わせたくない空気が漂っていたように思います。

 

他の誰かが出しておいてくれればいいのに。

わたしは忙しいんだ。

手が回らないのだから、しょうがないもん。

 

 

 

こんなことを、おそらく考えていたのだと思います。

 

 

 

しかし、このように書いてみると、他のことにも共通していることがわかります。

それって、ゴミ出しだけの話しじゃないんだな、と。

 

 

 

 

また、書いていて思ったことは

 

 

わたしたちは、増やすことに関しては抵抗なく出来るのに、減らすことに関しては何らかの抵抗を感じてしまう。

 

その理由は、増やす行為が「プラス」になると信じているから。

また、減らす行為が「マイナス」または「停滞」「無意味」になると信じているから。

 

何となく、「増やす」=「投資」=「よい変化」というイメージを持っているのかな。

 

 

 

確かに。

 

減らす行為は、何かを創造することはしません。

 

というのは大きな落とし穴で、実は減らすことで「スペース」を「増やして」います。

 

 

 

おそらく、減らすという行為が、自分に何か新しいものが加わると「思っていない」から、敬遠してしまうのだろうと考えています。

 

 

 

また、減らさなくても、瞬間的に何か実害があるか?と言われると、そうそうありません。

こういうのは、ある程度の時間が経過してはじめて、時限爆弾のような脅威を持つ存在となります。それは自分の責任の外に置きがちなので、つい「勝手に増えていった」ように感じるかもしれないのですが、実はれっきと、意図をして「増やした」結果となっていることに気づく勇気が必要です。

 

ただ、ゴミを1度や2度出し忘れたからといって、死ぬわけではありません (笑)。

ですが、塵も積もれば山となるということばの通り、あまりにも放置してしまうと、致死量に相当するものが出来てしまいます。そのときに自分はどう考えるかが、かなり重要になってきます。

 

 

 

いくら毎日仕事や家事を頑張っていたとしても。

外ではなく、内側の把握に責任を持たなければいけません。

「外」は「都合」であります。決して、「真実」などといったものでは、ありません。

 

 

 

「捨てる」「減らす」という行為には、奥深さが潜んでいる。

それは「増やす」行為には内在していない、「ほんとうの答え」のようなものだと、信じています。