つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

頭切りました。

というのは、小学校のときに髪を切ったあと同級生によく言われるセリフ。

 

 

※タイトル修正済みです。まちがえました

 

 

 

久々に散髪をしてきまして、さっぱりしたなぁと思っていたところに、このような思い出がよみがえってきました。

 

その後は近くのカフェでランチ。おいしゅうございました。

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昨日今日と札幌はほんとうにいいお天気で、普段そんなに日焼けしない体質なのですが、先ほど両腕がほんのり焼けていることに気がつきました。今日の予想最高気温は真夏日に届くかもというものだったのですが、実際はその1歩手前だったようです。それでも湿気があり、陽射しも強かったため、体感としてはかなり暑く感じました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いっぽう、遠く離れた九州では大雨による土砂災害が頻発しています。

北海道も昨年は大雨による被害が広範囲で発生しました。何度見ても、自然の脅威に怖れを抱いてしまいます。雨は小康状態に入ったそうなので、ひとりでも無事に救出されればと思いました。

 

 

 

 

実際に、という場面に出くわすことで、改めて気づくというケースが多々あることに気がつきます。

 

 

 

最近の自然災害は、予想をはるかに上回る規模のものでした。雨の量などはその代表例で、正直人間の側が自然を見くびってしまっていた感覚があります。だからといってこんなひどいことまでしなくても・・・と思うのですが、自然環境の変化は諸行無常なのだと思い知らされました。

 

どうしても、と言えばいいのでしょうか。環境が変わっていくことは、もはや必須となっています。住宅環境を皮切りに、その周りの環境が時代に合わせてアップデートされていきます。しかし、この世界は有限の世界なので、どこかで限界が来てしまいます。その限界を前に、どう打破していくかが、ゆっくりとした時間の中で問われ続けていたのではないかと思います。

 

 

 

東日本大震災後から、詳細な状況を「想定」して、今後の対策が打ち出されていると聞いています。ただ、それですべてをカバーできる訳ではありません。大きく左右するのは、ひとりひとりの予防力にかかっているのだろうなと思いました。

 

 

 

災害に対する予防と言われて思いつくことは

・避難所の確認

・災害時に使用する物品の確保

・災害時の行動ルールの設定

・地形の確認(高さや川等の有無など)

 

などが挙げられます。

 

 

こういったことを事前に確認しないままですと、いざ事が起きてしまった際には確認する余裕すらなくなると思います。これは都市部でも地方でも同様です。ここにいるから大丈夫ということは、まずないと思います。

 

 

 

意識が変われば、視点も変わります。

 

消火器や消火栓の場所、避難所と書かれた標識(プレート)、坂道や下り坂など、いま自分が立っている場所はどのようなところなのかが具体的に見えてきます。じぶんの土地がぐっと近くなる瞬間です。

 

 

 

最近では地震も頻発していますし、今年の夏はスーパー猛暑とも言われています。台風がこれから何個も訪れます。いつまでも無防備でいるわけにはいかないようです。

こういう状況が続いていながらも「何もしない」のは、これからの時代「無責任」と言われてしまうかもしれません。それくらい、当たり前になってしまうかもしれない可能性をはらんでいるということを、肝に銘じておくべきなんだと思います。

 

 

 

 

 

 

きのうは徒歩で。

きょうは自転車で。

あちこち足を延ばしました。

 

きょうは久々に北海道神宮へ。境内に入りますと、不思議と道路を走る車の音が遠ざかっていきます。境内はとても眩しく、青臭さが夏の熱気とともに運ばれてきました。その青臭さは、木々の力が漲っている証のようにも感じました。

 

 

 

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何かに触れること、そして行動してみることで、感じ取るものは必ずある。

その部分に対して丁寧に耳を傾けていこうと思った、夏の到来を感じる日でした。