店内にあるがらくた(本・CD・インテリアなど)が減っていくにつれ、見え始めたのは悲しいことに人間の本性というか、一種の「欲」のようなもの。ここまでの過程をつぶさに見てきたぼくとしては、その変化に驚いていました。
その変化は、当初はよいものと捉えていましたが、だんだんと雲行きが怪しくなり、そしてついには・・・というものでした。
この移り変わりを見聞きしたことがきっかけで、個人的に「がらくた整理とは」というのを改めて考えるきっかけになりました。よく前面に出てくる「モノを減らすとよいことが舞い込む」はある種正しいのですが、実は「それ以外のことも出てくる」ということにも目を向けなければなりません。
かんたんにいえば、モノを整理すればそれまでフタをしてみて見なかったことにしていたことも「出てくる」ということ。よいこと「だけ」が来る、訪れるというのは、人間側の勝手な考えであり、ご都合主義もいいところです。
なぜじぶんには「よいことだけが舞い込む」と考えるのでしょうか?そのように考える根拠があってのことなのでしょうか?背景を探ってみても、いわゆる「○○を信じているから」といった類のことしか耳に入って来ません。以前にも触れましたが、わたしたちが表現する神や天、そして光といった存在は、その対象にとって良いこと「だけ」をもたらすという証拠は「何一つない」のです。そこを履き違えてしまうと、何か良くないと思うことが起きたときの初動に大きな隔たりが生まれます。じぶんの前進の停滞を、みずから率先して行うというあべこべのことを、自信をもってやっているかのような図式が生まれます。
ふしぎなことですが、他人のことについてはごく冷静に見ることができるのです。
「この人にとっては不運な出来事だったけど、これが今後の糧になるだろう」
こういった評がよくされますが、それが自分のことになりますと話は違ってきます。最早そのような不運な出来事すら起こらない、よいことだけが舞い込むのだという偏った考えに洗脳され、残念な末路を辿ることになります。その過程のどこかで気づけばまだいいのですが、最後までその責任、原因を自分の外に置いていたならば、これらの出来事はそのひとにとって「糧」いすらならないことでしょう。
ここまで厳しめのことばを並べてきましたが、このように表現せざるを得ない展開が起きてしまいました。
不要品の代理出品を続けていきますと、お店の店主の発言や行動に変化がみられるとともに、残念と思われる行動も露わになってきます。
書いていけばその人への批判とも受け取られてしまいますが、同時に自戒を込めての記述になります。誰にでもそうなる可能性はあり、自分もその中に入っているからです。「自分は決してそうはならない」と言っているほど、落ちぶれてしまう可能性は高くなる印象を持っていますから、「他人のふり見てわがふり直せ」という諺を忘れないように、客観的ではありますが見聞きしたことを書いていきます。
簡潔に表現をしていきますと、店主の態度(姿勢)は
謙虚⇒横柄
※「横柄」で検索したらこちらの画像が(笑)
へと変遷しました。
最初は、「手伝ってくれてありがとう」という姿勢だったのです。黙々と作業をするぼくと当時いたお店のスタッフ1名に対しては「天使だ」と評することも。至れり尽くせりではありませんでしたが、大きな峠を越す程度の助力を2人で行ったと思っています。
しかし、ある程度の期間が経過したころに、徐々に態度が横柄になってきました。
どのようになってしまったかを羅列していきますと
・食事をつくるのが面倒だと言い放つ(メニューには手間がかかるものもあったため)
・面倒なことに対してあからさまに嫌な顔をする
・お客を選ぶようになる
・自分で何もせず、ただひたすら人に頼ろうとする(または指示する)
・自分が理解できないことに対してはすぐさまシャットアウトしてしまう
というものでした。
店主は比較的高齢ではあるものの、周りの同年代から比べてみると元気でアグレッシブです。電子機器も扱いますし、まったく不慣れというわけではありません。しかし不得意な分野や、どうしても理解に時間がかかるのも否めない事実。店主は言われたことをノートに書いてメモはするものの、行動についてくることが中々ありませんでした。ついには「わかるひとが来たらついでにやってもらおう」という考えになってしまい、この時期はぼくがその対象となっていました。
上記の横柄な姿勢は、お店を経営したことがないぼくであっても、いかんだろ~と容易に判断できるものです。いったい何のためのお店なのかという、そもそもの話しにまでさかのぼってしまいそうな勢いです。お店である以上、売り上げは大事ですし、売り上げが伸びるための努力も欠かさなければなりません。仮に宣伝活動をしなかったとしても、口コミで広がっていくようにするにはどうすればいいかということを考えていく必要があります。店主はそれらの「やるべきこと」をすべて放棄したかのように見受けられました。ですが「千客万来」自体は望んでいたと思います。しかし現実はそれとはまったくの逆方向へと進んでいたのです。
明らかに「おかしさ」を感じたのは、とある日のこと。
昼食をそのお店でいただいていた日の事でした。
宅配業者が荷物を配達しに来ました。
その光景だけを見れば、ごく普通の出来事です。
そのお店はヴィーガンを謳っていたので、それに適した食材や調味料は近くの店舗にないこともあり、ネットで取り寄せていることも知っていました。そのためその光景を見たぼくは「食材が届いたんだな」程度にしか思っていなかったのです。
が、実際は「食材だけ」ではありませんでした。
どうやら、こちらで処分しているそばから新しいスピリチュアル関連のアイテムを様々購入していたということを知りました。お店が開いている期間内はほぼ毎日のように宅配業者が配達にくるらしく、当時いたスタッフも呆れていたと教えられました。
不要なものを減らして、新しいものを取り込む。
この場合も、「新しいものを買ってお店に置く」としたら、そんなんいいじゃないの?と思います。それには反対しませんし、その方の自由だと思います。
しかしながらここで露呈してしまったのは、その人とお店が抱える問題に対する原因を「外」に置き、それを何か大きな存在が「解決してくれる」という、まさしく他力本願なところ。
そうです。
がらくた整理は、自分が一生懸命になって自分の環境下にあるあらゆるものを減らし、その過程で見えてくる自分の心の整理も併せて行います。そうすることで見えるもの・見えないものの整理がバランスよく進み、双方のスペースが生まれたとき、新しいことが舞い込みます。その新しいことは良いことであったり、更なる試練を生むきっかけになるかもしれません。
しかし今回の件については違いました。
店主は「減らせばよいことが起こる」という、それこそ表面だけのことにのみ信じ、過程を大事にせず結果だけを求めました。言い方は悪いですが、「この壺を買えば幸せになれる」というのを信じてしまうのと同義です。結果、お店にあるもの、そして自宅にあるものを減らしても、お客さんは増えませんでした。逆に、「この壺の効果は切れたから、新しい壺を買おう」と、スピリチュアルに関するものを次々と購入していきました。
店主は、みずからの課題を自分自身の力ではなく、スピリチュアルな存在やアイテムにその解決を求めていたことが、残寝ながら明らかになりました。
がらくた整理は、大いなる存在が自身の課題を解決してもらうためのメソッドではありません。
がらくた整理は一種の修行です。瞑想です。憑き物落としです。そして何より、自分自身を取り戻すための旅になります。
この意義を大きく履き違えてしまったいま。
残念ながら、これ以上のお手伝いは無理だと思いました。
正式に依頼を受け、最後まで見守っていたらと考えていたこともありましたが、この中途半端な結果、個人的にはたいへん悔いが残る「失敗」ケースは、じぶんにとって必要な現実なのだろうなと受け止めるまで、多少の時間を要しました。
だって、「じぶんのがらくた整理は間違っていたのか?」と考えていましたから。
年が明けてからお店に行ったのは1度か2度ほどでした。
その後、2月に入ると祖母の容体が急変し、亡くなったため、結局2月はお店に訪れることは出来ませんでした。そして、その後もお店に伺うことは永遠にできなくなりました.
平成29年2月。