辛かったこと。嬉しかったこと。思い出すこと。忘れていくこと。
昨日、ふとしたことがきっかけで「忘却の引き出し」が開けられた。
札幌駅地下を北海道大学方面へ向かって歩いていたら、ふと視界にかつての同僚が入ってきた。
ぼくはそれを横目にしながら、歩みを止めることなくまっすぐ歩き、その人がいる方向を振り返ることはしなかった。
相手は、おそらくこちらのことを気づいていたと思う。
なぜ、声を掛けなかったか。
理由は簡単だ。その人とは仲違いをし、そのまま同僚という関係が切れていたからだ。
そう。どちらにとっても「会話は建設的ではない」と思っていたと思う。
仮に声を掛けていたとしたら。
そう思いながら歩き続けていた。
出てきた答えは「かける言葉はない」。
端的に言えば「何も浮かばない」ということだった。
その顔を不意に思い出し、その出来事がもう5年も前のことだと、少し時間が経過してから思い出した。そうか、あれからもう5年が経過していたのかと、少し驚いた。
そして、あの頃を思い出し、少しばかりか、相応に苦しくなった。
なんでこんなに苦しさを感じるのだろう。
恐らくだが、その仲違いについて、ちゃんと解決していないと考えているということに気がついた。
しかし、解決している・解決していないというのはあくまで個人の考えだということにも気がつき、果たしてそう思うことについては個人的な考えの偏りが生み出したものなのではないかと思うようになった。その同僚はいまも続いている仲違いの状態で「終わり」としているかもしれない。逆にぼくはその状態を「未解決のまま」としている。その違いは、その未練はと思うと、どうやらぼくは自分自身の首を絞めているようにも思えてならない。
ひょっとしたら、その解決も未解決も、あまり大差ないのかもしれない。
単純に「終わった」だけと、認識するぐらいがいいのかもしれない。
そんなことを考え、混乱しながら、あの頃の苦しさを抱えながら過ごしている。
在宅しているときに書留が届いた。
数か月前に参加したキャンペーンの当選商品が不意に届いた。
嬉しい便りだった。
苦しさを予告もなく感じさせられる出来事もあれば、喜びをもたらす出来事もある。
人間にそのタイミングを選ぶ権利のようなものは、もともとない。
しかしそれすらも事前に知りたいという、予言めいた技術を欲する風潮が強くなっている。正直、それは面白くないと考えている。
忘れることは、おそらく大事なことなんだと思う。
しかし、個人の意思に関わらず、忘却の彼方に「追いやった」記憶が引き戻されることがある。それが不意打ちのごとく訪れるものだから、ときにひとはひどく狼狽する。
こんなひともいる。
「もうこれ以上思い出させるな」
実際に浴びせられたことばだ。
それほどこの人は「特定のこと」について嫌悪感を抱いている。もう二度と思い出したくないらしい。だが、こんな人に限って、強烈に引き戻されるような気がしてならない。
そう考えると、忘れることが必ずしも「よい」とは限らないようだ。
ある程度の「納得がいく」ところまで消化しておかないと、思い出したときの衝撃が強いのではないかと思う。
理想なのは、過去の出来事に対峙するときに動揺も狼狽もせず、冷静に受け止められること。嫌悪感を抱くことなく、受け止められること。
対称的な出来事を通して、そんなことを感じた1日だった。