ことばを「見る」という感覚の大切さ。
先月まで仕事をしていた場所は所謂「コールセンター」。
電話での対応の他に、メールでの対応がありました。
電話での受付時間は設定があるものの、メールについては24時間。
そのため、繁忙期での人員のバランスには、骨を折りました。
また、電話であれメールであれ、対応者が困ったことがあります。
それは「表現」。
言い回し方や言葉少なめな表現など、その言葉を聞いたり読んだりするたびに「???」という文字が頭に浮かぶほどでした。
ことばというのは、意外と伝えるのが難しいもの。
それを改めて感じた2か月。
というのは、じぶんが聞いた内容を他人に伝える場合、その内容を理解しないとなりません。
これがインプットだとすると、聞いた内容を理解して他の人に伝えることはアウトプットになりますが、この一連の流れを短時間で行わなければなりません。つまりはかなりな芸当を短時間でこなさなければならない局面が1日に数回出てきます。
問い合わせ窓口に在籍している以上、顧客が何を言わんとしているのかを考えていかなくてはなりません。まさしく国語の授業みたいな感じに似ています。文章に書かれていないことまでを読み取り、過不足なく説明していくというのは、実は意外と難しいことなのだと知ることになりました。
また、説明の仕方にも正解はありません。
顧客の質問に対する回答が3種類あったとします。
そのどれもが、説明がきちんとできていれば一応正解なのですが、3つのうちのどれが適当になるかというと、それは質問者の「個性」に合わせることになるから。その個性も文章からある程度読み取っていかなくてはならないので、集中力を必要としました。
反面、上記のいずれにも当てはまらない場合もあります。
こっちの文章をまったく読まず、自分の要求(要望)のみを伝えてくるという人も実際にいました。
そんな人に対しては、内容は同じでも表現を少しだけ変えて説明していくことで、読むことを促し、そこから理解してもらうという気持ちを込めて返信するということをやっていました。
こうして書いていくと、結構な労力です。
そのため、メール担当者は顧客からの文章を読み、読解し、回答の文章を組み立ててから返信するというフローを経ています。電話の場合はそこにリアルな温度感等が加わるのでまた違う醍醐味がありますが、メールの場合は良くも悪くも時間差が出てしまいますので、出来るだけ1度の応対で完結させたいところなのです。もちろん応対が1回で済むこともあれば、後から小出しされて応対が何度も続くケースもあります。
また、メール応対の場合、文章のチェックというのが上の立場に立つ人間の業務のひとつになっていました。
回答の文章が質問の内容に沿ったものか。
短すぎないか。または長すぎないか。
説明が回りくどくないか(ぼく自身喋りのときは回りくどい)。
顧客の感情を読み取っているか。
など、幾つか見ていかないとなりません。
それは「読む」というよりも、「見る」という表現が合っているように思いました。
メールの文章から出ている空気のようなものを「見て」いることに気づいたからです。
それは、文章が物語るものを理解することに他ならないのですが、文章「だけ」に気を取られていると間違った解釈をしてしまうという可能性もあったので、全体を見ることを意識し、忘れないようにしていたのです。というか、自然とそれが出来ていたことに驚きを感じていました。
ぼく自身も、メールを担当する前はパートさんより先にメール業務を行っていました。それ故に質問の内容を読みとることの難しさを感じていました。それがいきなり本番(汗)になり、教わる立場から教える立場に変わったのですから、さぁもう大変です(笑)
そりゃもう、必死でした。
パートさんもメール対応に慣れてきますと通常の内容であればチェックなしに自己判断で送信してくれるほどに上達してくれましたので負担は軽くなりましたが、どのように書けばいいかとか、文章がこんがらがったものや感情的になっているものなどへの返信に関しては、パートさん申告の元チェックを行ったり、担当を自分にして対応したりしていました。そのため、そこそこクセの凄いものが集まるように(笑)
嘆き節半分ですが、それがあったからこそ吸収量も多かったと言えます。
みんなと同じことをしていては追いつけないという気持ちが常にあったため、違うことをしていかないとと考えていたのです。その方法で満足に補えるという訳ではありませんが、案件が自然に集まるという構図が徐々に出来上がり、成長の土台が整いました。膨大な「言葉」を前にするという環境が出来上がったのです。そのため、読むだけではなく「見る」という行動を、無意識に、自然に行うようになっていました。
言葉を「見る」という表現は、昔からあったような気がします。
しかしこのような感覚は、もしかすると近代的なものかもしれません。
ただ言えることは、この感覚は今後絶対に必要なものになると感じたということ。
言葉は不思議なもので、表面上の意味もあれば奥に込められた意味(想い)もあります。
表面上のことばかり見ていては、やはり駄目なのです。
それは「言葉」だけのものではないのだと、わたしたちは知っているはずなのです。
表面上の意味は、ひょっとすると「試し」なのかもしれません。
それは決して「騙し」ではないのです。試験のようなものと考えればいいでしょうか。
それは直感ばかりを優先させることへの警鐘でもあり、考えることへの推奨でもあります。
直感が必要なこともあります。反対に考えることが必要なこともあります。
肝心なのは、自分の立ち位置です。何を見ているかだと思います。
そこを履き違えていなければ、自分は凄いスキルと持っているなどと過信したりはしないでしょうし、見えない存在ばかりを追うこともないでしょう。わたしたちは常に、わたしたち自身に「試し」を課していることを自覚しなければならないようです。
この2か月間、自分なりに「言葉」が無数に生まれる空間の中に滞在してきました。
それこそ一瞬にして流れてしまう、感情移入も出来ないような現場です。
目まぐるしく変化する言葉の激流の中にのみこまれていました。
溺れることなく、やるべきことを果たしたいま想うことは、言葉の役割や力などの再確認とともに、じぶんはやはり言葉を使った仕事をしていきたいという決意を持ちました。
どのような仕事であれ言葉は使いますが、ぼくの場合はその言葉のレベルを上げていきたいというもの。それが具体的に何なのかは漠然としていますが、つまりは「極めていきたい」ということにつながります。
今回の業務で、言葉の奥深さを知りました。また、時代特有の言葉の存在感も感じました。言葉は時代とともに生きています。それこそいきものだと思います。その息づかいをしっかりと感じ取り、伝えていくことこそが、これから出逢う人に対して最大のお手伝いにつながるのではないかと感じました。
言葉は、難しいです。
言葉は、奥深いです。
でも、言葉が好きです。
だから、言葉をもっともっと使っていきたいと思います。