「ごくふつうの日常」にすべてが詰まっている。
2か月という短い期間で、わかったこと、感じたことがあります。
それは「ことばに出逢うタイミング」の妙。
そのことばが今「必要」だと感じる設定が、絶妙なのです。
この感覚は、数年前にはまったくなかったものでした。
ヒントになることを教えてくれることば。
答えをそっと教えてくれることば。
自分の気持を再確認させてくれることば。
忘れていた大切なことを教えてくれることば。
叱咤激励のことば。
感謝のことば。
いきていることを実感できることば。
自分の外から聴こえてくる、または視界に入ってくることばを認識して、自分のこころや魂が反応する。その度合いは少々大袈裟かもしれませんが、敏感であるようにも思えます。しかし考えてみると、いまの世の中は鈍感といいますか、ドライなところを使い分けている感があります。ぼくの場合はドライになるよりは、情緒豊かであるほうを選びます。
曲の歌詞や本に書いてあることば、ドラマや映画で語られるセリフ、何気ない会話からの一言。
昔よりも確実に、そして膨大に増えたことばの世界に身を置いているなかで、わたしたちは触れることばに対してどのような反応を取っているのでしょうか。
その多くが、受け流すかまたは、歯牙にもかけていないかもしれません。それほど、ことばが多くなっていると思います。いちいち反応するのが億劫なほどに。そうなってきますと、必要かどうかの判断基準も次第に狭まってきます。ピンポイントと言ってもいいくらいになってくると思います。そうなると、周りの声も、あまり耳に入ってこなくなることにつながってしまいます。
それは詰るところ、その人の可能性だとか、その人が自身で解決しなければならない課題に目を向けない、いわゆる「先延ばし」につながってしまうと感じます。それは決して、その人のためにはなりません。リアルタイムではわかりにくい、わからないということが多いと思います。何せ「鈍感」になっていますから。そうなってしまうと、ほんとうに大事なことすらも、見逃してしまう可能性がとても大きくなってしまうのです。
ぼく自身、不思議に感じて仕方ないことがありまして。
それは、以前よりも自分に触れてくることばが「主張」してくること。
それまで流していただけのことばに、光るものが出てきたということ。
出てきたというよりは、自分の見方が変わったからなのかもしれません。
そこから考えることは、わたしたちが考え、そして捉えている課題に対する解決方法は、どこか特別な瞬間や特殊は環境から訪れるものではないのではないかということ。
それよりもむしろ、ヒントや答えになり得るものは、「ごく普通の日常」の中にこそあるものだということ。
そう仮定すると、特殊な能力とか、特殊な鍛錬の必要性は一瞬にして否定されます。
特定の信仰をする必要も、なくなります。見えない存在や特殊な能力ばかりを持ち上げるスピリチュアルに傾倒する必要もなくなります。
現代的な生活に慣れてしまっているが故に、日常生活の中で培うことが出来る素養が希薄になってきていることは事実です。そのため、生活習慣を見直していくことのほうが急務であると考えています。
ぼくだって、特別な修行をしてきたわけではありません。
では何をして、ここまで変わってきたのか?
自分にとって必要なことばが「日常にごろごろ転がっている」ことに気がついたのか?
今年1年を振り返りながら、紐解くことを試みたいと思います。
きょうまでに読んだ本
伊勢白山道問答集 第1巻 伊勢白山道 電波社 (358)
春の庭 柴崎友香 文芸春秋 (359)
晩夏光 池田久輝 角川春樹事務所 (360)
マップ・ブック BE-PALアウトドア・ブックレット 小学館 (361)
さよならの力 大人の流儀7 伊集院静 講談社 (362)
空海 人生の言葉 現代語訳 川辺秀美:編訳 ディスカヴァー携書 (363)
創価学会と平和主義 佐藤優 朝日新書 (364)
Bocket 第4号 一般社団法人かもテラ (365)
BRUTUS 2017年9月1日号 マガジンハウス (366)
HO(ほ) 2017年12月号 ぶらんとマガジン社 (367)