変わることこそ、日常であることを知る。
果たしてこの世界に、変わらないものはあるのだろうか?
テーマとしてはすごく大きいものなのですが、考える発端となったのは職場におけるぼく自身の「評価」について考えを巡らせたことでした。
昨日の日記
これは個人的な考察になりますが、評価はずっと「同じ」であるとは言えないのではないかというのが見解です。仮に10段階の5だと評価を受けた場合でも、それは時間の経過によって6になったり、4になったりする場合もあるということです。
このほかに、この評価の存在そのものも「変わっていく」ということも考えられます。つまりは「忘れられていく」ということです。それは時間の経過によってという条件がつきます。そのようにイメージをしていくと、逆に「そのまま」の状態でいること、またはあることが逆に不自然のように感じてきました。
ぼくはそれに気づきながらも、それを見て見ぬふりをしていた時期がありました。
それは、「忘れたくない」と強く願う出来事があったからです。
それはつまり「変わっていくこと」を否定する動きでもあったのだと、今では感じています。
現段階での答えとして、「この世界に不変のものはない」となります。
すんごい昔話になりますが、古代の権力者は自分が長くその地位に就きたいと考えていました。そのため「不老不死の薬」を生成するために労力をかけたという嘘か真かといった話が出てくるほどです。それほどに人は昔から「変わること」を受け容れたくないと考え、または怖れてきたのだと思います。反面自分にとって都合の悪いものに関してはその逆の行動を取ろうとします。かつて好きだった人が今ではそれほどとなった場合、片時も忘れることがなかった存在が少しでも早く忘れたいと思うようになるほどです。
見えないもので考えた場合、「変わらずにいること」はかなり難しいことのようです。
変わらないことを否定するわけではありません。長く同じ気持ちをもっている場合ももちろんありますが、それは時間の経過とともに、その深さが増しているとは言えないでしょうか。そういったことから、「同じ状態にはない=変化している」と、ぼくは言いたいのです。
では見えるモノ、物質で考えた場合はどうでしょうか。
昔とは違い、現在は長保ちするものが増えてきています。中には「半永久的」といった文言を使っているモノもあります。それらは「不変のもの」と言えるのではないか?と考えてしまうのですが、これにもぼくは「ノー」と言い切ります。
その理由は「コンディションの変化」がそれぞれ異なるだけだと言えるからです。
つまりは劣化のスピードがあり、その進み具合がそれぞれ違うだけだと言いたいのです。
上記の「半永久的」というのはそれを裏付けます。決して「永久的」とは言えないのです(それは法律的な問題なのかもしれませんが)。
永く残るものは実際にある。しかし、それがいつまでも「同じ」状態にあるとは言えない。
単純に「ある」「なし」だけで言えば、不変のものはあると言えますが、もう少し詳しく見てみますと、それらのものにも「時間」が内在していて、コンディションの変化が起きている。
自然の光景も、同じように見えて、昨日と今日では見せてくれるものがまったく違います。
それは実際に現場に立ってわかったことですが、環境も常に同じという訳ではありませんでした。逐一「動いて」いるのです。それを感じたときに想うことは、「変わることを受け容れること」が大事なのだということ。もちろんその背景が大きく影響することは言うまでもありません。自分に都合のいいことだけに対しての「変化を受け容れる」ことを、認めてはダメだということだけでも、どこかで忘れないでいて欲しいと思います。
物事は変わっていく。
でも、その中でも、変わりたくない・変えたくないものはあります。
ではどうするか?
良い悪いはどうしても出てくると思いますが、ときにはそれを「強め」、またときにはそれを「緩め」ていけばいいのではないだろうかと考えています。頑なでいることは、正直大変ですし、何より疲れてしまいます。意固地になるよりも、その時々に合わせて元々の気持ちや考えにプラスアルファをしていくことが出来れば、この変化を難なく受け容れることにつながるのではないかと思います。
きょうまでに読んだ本
宇宙万象 第1巻 伊勢白山道 電波社 (375)
ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門 ウィリアム・ハート著 日本ヴィパッサナー協会:編訳 太田陽太郎:訳 春秋社 (376)