がらくた整理「ケーススタディ」。
仕事であるとともに、自身の学びのひとつとして、とあるお店のがらくた整理を昨年から今年にかけてお手伝いさせていただきました。
そのお店は残念ながら今年2月末に閉店。
がらくた整理はそのお店の繁盛を願ってのことだったので、その結果には納得いかない部分もありました。
最初の記事から早半年の時間が経ち、前回の記事からも時間が経過していましたので、今週は改めてこの内容について振り返りをしてみたいと思います。
当時では考えられなかったことが、いまでは少し考えることができるようになっています。
それは、「お店の繁盛だけががらくた整理の目的だったのか?」ということ。
ポジティブな考えにも見えがちですが、お店の閉店こそが「次なる展開」だったのではという考えです。
ただ、最初からお店を閉店させようという考えではいなかったことだけは確実。
関わっていく場所がにぎやかになっていけば、それ以上嬉しいことはないと感じていましたから。
違う展開になっていたとしたら、ここで考えている内容も変わっていたと思います。人間は、起きた現象に対してあれやこれやと考えます。ポジティブに、そして、ネガティブに。自分の手柄にすることもあれば、他人になすりつけることもあります。今回は果たしてどうだったのだろうと、今でも考えます。
最初は素直な姿勢であったはずの店主が、お店から不要のモノがなくなっていくとともにその性格が変わっていきました。それまで仮面を被っていたのか?それとも別の要因か?本当のところはわかりません。これまでに何度も書いてきましたが、それを目の当たりにした感想としては、残念の一言に尽きます。
このような展開を見て思うのは、がらくた整理は単なる「減らすための作業」でも、「幸せを呼び込むためのメソッド」でもないのではないか?と考えるようになりました。それらをすべて否定するわけではないのですが、要するに、きれいにするためには「今現在穢れている部分を顕わにし、認め、受け容れたうえで浄めていくこと」が必要なのではないかということです。つまりは、最初から最後まできれいに物事が進むわけではないということ。途中邪魔が入ったり、自分のメンタルが最下層まで落ち込む事態も起こりうる可能性があります。むしろ、その確率のほうが高いかもしれません。それを嫌がり、きれいにすることを放棄して任せきりにすることは、都合のよいことでしかない。
あの短期間での出来事は、おそらくは多くの人に内在するであろう、本心の一部を垣間見たということなのだと思いました。
閉店したお店の店主に最後に逢ったのは、今年1月。
2月は祖母の他界等があったため、お店を訪れることもできませんでした。
閉店を知ったのは、本人からの連絡で。
SNSのメッセージで、本人から事後報告で伝えられました。
その際、改めてHPなどを見てみますと、既にクローズした旨の記載がされており、ある程度前から考えていたことが伺えます。かんたんな更新ではあるのですが、店主本人には一部その作業が難しいため、ヘルプが入ることを知っていたからです。決めたら行動に移すことが早い人でもありましたので、昨日思いついて今日やってしまうということも考えられなくはないです。ただ残念なのは、告知のみ行い、お客さんとのやりとりはまったく行わなかったこと。電話やメールなどでは行っていたかもしれないのですが、そこは違和感を感じるほど、距離を置いているように見えてなりませんでした。
ぼくへのメッセージは、お店を閉めたことと、売上金について。
必要事項のみが書かれた、いたってシンプルなものでした。
返信はしましたが、多くを語ろうとはしない姿勢になっていました。
あまり関わりたくないという姿勢のようにも思えました。
これまでの印象とは、180度変わってしまっていました。
この時点で、ぼくはある程度の評価をしました。
「良い方向」へ変わることはなかった、のだと。
成功か失敗かと問われれば、これは「失敗」だと。
責任も感じました。これは不遜(または傲慢)かもしれませんが。
だって、がらくた整理をする以上は、その場所も人も、よい展開を迎えることができるようにと強く願っていました。それが望み通りに行かなかったことは、とても大きな教訓として現在も残っています。
何が良かったのか。
何が悪かったのか。
何が致命的だったのか。
何が足りなかったのか。
考えればきりがありませんが、ここをしっかりとまとめなければなりません。
そのようなことを考えていたとき。
ふと読み進めていた本からヒントとなるキーワードを見つけました。
それは
「御陰様」
という、言霊でした。