つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

不便さが伝えたいもの。

日本の広い地域で豪雪となり、生活に支障が出ていると報道で知りました。

今週は留萌市(るもい)に来ていますが、移動日は吹雪で高速道路がほぼ1日通行止めに。その日はJRも終日運休になるなど、交通網がマヒしていました。




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また、積雪も最高値を叩き出しているようで、除雪作業に追われてしまい、体が休まる時間が少なくなっています。こういうときに雪の事故というのは起きやすいもので、道路の幅は狭まりますし、屋根の雪はこんもり増えていきます。いつもと同じ感覚で行動しますと、ふとした瞬間にあわててしまうことも考えられますので、より一層の注意を払うことが必要です。

ニュースを見ていましたら、運休となってしまった状況を受け入れることができないのか、「困る」という声が何度も聞こえていました。そこで思ったのは、「不便」をどのように見て、どのように捉えているかということでした。

現代の歴史は、利便性の追求にあった、とも言えると思います。それは多角化していく生活には必要不可欠な要素となっております。不便さはいつしか「ロス(損失)」という考え方が定着し、毛嫌いされるようになっていました。

しかし、時間が進むにつれ、便利さは当初負担軽減などを目的としたものでありましたがそれがいつしか緩慢さを生むようになりました。一方で不便さは毛嫌いする(される)ことはありながらも、それが理にかなっていることに気づいていきます。メリット・デメリットという分け方はしたくないのですが、何かを取れば他の何かを犠牲にする、というのが、本来の構造なんだろうなというのがぼんやりと見えてきます。メリットしかないというものも現在はいくつか生まれているようですが、基本を忘れてはいけないのだなと感じました。

利便と不便は、その性質で上手にバランスをとっていたとしたら。
もし、そのバランスが崩れてしまったとしたら。

その先にはたとえ一時的でも極端な世界が待っているかもしれません。それは今回の雪のように、半ば強制的に不便さを痛感させる出来事を発生させ、便利さとは、不便さとは何ぞやと課題を提示されるかのような感覚です。

飛行機やヘリコプターのトラブルで空の移動が出来ない。
列車の部品落下や線路環境のトラブルで長距離移動が難しくなる。
自動車のずさんな検査や部品の不具合で安全な運転が脅かされる。
天候の不順や他の国の驚異によって海の航行に危険が増す。
電波系統のトラブルでネットが使えなくなる。

などなど、出せばきりがありません。
しかし、災害時はこれがあり得る話になってきます。どこかで想定しておくといいのかもしれません。


また、不便を感じていることに対して、自分の努力で解決しようとせず、パワースポットやいいとこどりのスピリチュアルにすがる傾向にも警鐘を鳴らしていると考えています。

お金がなくて不便だ。
仕事が続かなくて不便だ。
パートナーがいなくて不便だ。
夢が叶わなくて不便だ。

お願い事の範疇になってしまいますが、いちばん身近なことに対する不便さもあります。現代では特にというわけではありませんが、スピリチュアルが登場してからは、そこの良いところだけに盲信してしまう偏りが生まれ、大いなる存在に解決してもらうことにのみ努力を注ぎます。その期間、現実的な努力はほぼ放棄されてしまいます。思うにぼくは、これに対しての戒めも今後出てくるのではと思っています。

「しょうがない」ということばがあります。
これって、究極のような感じがしてなりません。
現代は便利なあまり、何とかしろ、何とか出来るだろといった「勝手な」思いが先走りしています。気持ちがわからなくもないのですが、ひとこと「しょうがない」を口にすることで、肩の力が抜けていくのではと思いました。


しょうがないと思う。
そこから起こる展開こそが、人に必要な振る舞いなのではないかと思いました。