つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

本音と建前=意義と意味。

先週は道北の留萌市

今週は、再び函館市に出張しています。



函館は、雪です。

大雪です。



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この写真はきょう午後の函館と隣の北斗市のあいだくらいの場所。七重浜がすぐ近くにあるため、潮風が強く吹く場所です。

積雪も札幌以上にあり、勢力が強くなっていると感じました。函館ですらも、春の訪れは遅れるかもしれません。

例年であれば雪などほとんどない土地ですが、ホームセンターでは除雪用具がバンバン売れるほどの変わりよう。今年の冬は、厳しいものになりそうです。


連日、仕事が終わってホテルに戻りますと、五輪の番組にチャンネルを合わせています。週末から嬉しい報せが続々と入ってきています。



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嬉しい報せの陰では、惜しくも入賞ができなかったという事実もあります。まさしく天国と地獄ですが、そこで僕なりに感じるものがありました。

これまでの五輪のイメージは、期待ばかりが高まる傾向にありました。そのため、メダルを期待されていた選手が結果を残せないと、批判の応酬を受けてしまう流れがあったように思います。これは自国開催のときなどにも当てはまりますが、背景としては「結果主義」にあるのではと考えています。

そうでなければ、競技の際に禁止されている行為をしてしまう理由が見つかりません。国の面子も確実にあります。そう見ていくと、平和とスポーツの祭典ですらも、大きな争いの場となってしまっているのかなと考えていました。

4年にいちどではありますが、意義と意味について考えます。同時に、それは本音と建前とにつながっていきます。これは何も特別なものではなく、個人の日常にも当てはまります。そうやって生きているのが、事実だと思います。

政治的にも利用されてしまっている現状を見て、何だか悲しくなりました。何のための祭典なのかがわからなくなってしまうからです。個人も国家も、己だけのための行動をとっていては、その後ろにはわだかまりが必ず生まれます。それをだれのせいにするのか?わたしたちの今後が試されていることを知っていかなくてはならないと思います。

難しいけど、ぼくは建前を使いたくない。
これまでたくさん傷ついた者の意見です。