通じあう話。
親しい友人のところに挨拶周りをしていますが、その中で猫を飼われている友人がいます。
その猫の中に長い付き合い(15年以上!)をしている猫がおり、最後に一目見ようと逢ってきました。
その他、行くと必ず遊び相手になる猫たちにも逢ってきました。
ぼく自身はペットを飼っていません。
飼いたいと思いはするのですが、考え抜いて結局飼うことを諦めました。
その分、友人宅のペットとはとても仲良くさせていただいています。
これはもう感覚なのですが、犬や猫が自分の言っていることを理解しているのではないか?と思うことがあります。そんな場面に遭遇しましたので、書き遺しておこうと思います。
上に書きました猫は年齢も20歳を超えており、老人ならぬ老猫の域に達しています。
本来ならば歩く姿にも力がなくなってくる年頃なのですが、若い猫が一緒にいるため、壮健な姿を見せてくれていました。それでも年の波には勝てない部分があり、起き上がろうとする際に足が少し震えているのが見てとれました。悲しい一面ではありましたが、同時に長い時間も感じました。
その友人宅に行った目的は、そこの子どもたちの顔を見ること(遊びも含む)
その友人の奥さんに挨拶すること(奥さんもそこそこ長いつきあい)
その老猫に逢ってくること
がありました。そのどれもが大切でした。
こどもたちは順調に大きくなっており、両親をたびたび怒らせていました。
それもなんだかほほえましく、また、安心もしました。
奥さんも元気そうで、何よりです。いつも食事をふるまってくれました。
さて、猫は。
ぼくはペットを飼ったことがないので珍しいかどうかはわからないのですが、名前を呼びますとちゃんと返事をします。いらっしゃいも、さようならもしてくれます。顔を憶えてくれているからなのかはわかりませんが、勝手に何か通じあうものを感じています。
その猫に、別れの挨拶をしました。
「○○、実はな、とみー遠いところへ行くんだよ。ひょっとしたらもう逢えないかもしれないから、きょうこうしてきたんだわ」
といった内容を、その猫に聞かせました。
ちょうど毛の生え代わり時期らしく、しきりに毛づくろいを求めていた猫でしたが、その話を聴き終った途端、姿勢を正しました。前足をまっすぐ伸ばし、後ろ足は地面につけるような、代表的な座り方です。
そして、ちらりと、ぼくのほうを見ました。なんだか「ほんと?」と言っているかのようでした。
そのしぐさを見て、勝手に「伝わったかな」と感じました。ひょっとしたら、言葉ではなく空気を感じ取ってくれたのかもしれません。その後猫は猫らしく、気ままな猫に戻りました。
ぼくは比較的、動物や子ども、そしてお年寄りに好かれる傾向にあります。かといって、意思の疎通や通じ合うことはまた別の話になると感じています。
動物と通じ合うためには、一緒の時間を長いこと過ごさなければならないのではと感じています。そう考えますと、ぼくの場合は圧倒的に時間が少ないです。そのような状態で「意思疎通が出来ている」とか「通じ合っている」というのは、ちょっとその人個人の主張が強いのかもと思っています。
ことばを話すことのできない動物と通じ合う、または意思疎通が出来るというのは人間の望み、または願いの大きいところだと思います。素朴な疑問を呈せば、何故言葉と言うものを用いて人間は通じ合うのだろうかという話になってしまうのですが、今思うと他の動物同士にも言えることなのかもしれません。かといって、お互いの言っていることが伝わったとしても、意思疎通や通じ合うことに即つながるわけではありません。何とも難しい話だなぁと感じてしまいました。
ぼくの場合は思い入れもあります。
家人からは、ロマンチストと呼ばれます。
何かと、感慨深げになるのです。
それが最近では、周りにあるごく普通の、当たり前のようなことに対しても何かしら感じるものが出てきました。
年齢のせいかとも考えてしまいます。
違う言い方をすれば、見方が変わったとも言えます。
ひとつの表現について、言い回し方は必ずしもひとつではありません。
どのように伝えていくかを考えていくことも、大事な要素と感じます。
個人的には、それはまだまだと痛感しています。
だからこそ、意識して取り組んでいます。
人であれば離れてもまた逢うチャンスはあります。
しかしペットはなかなかそうもいかなくなります。
それを覚悟して、この日は逢いに行きました。
言葉に出さずとも、伝わっているものがあるならば、本望です。
ありがとう。レミ。