「捨てたモノ」がまた必要になったと感じたときに考えてみた話。
今回、札幌市から八雲町まで引っ越しを行ったことに付随してがらくた整理を行いました。
がらくた整理は札幌を離れる前と八雲町に入ってからと、都合2回に渡って行っております。その中で、ほんの瞬間の感覚ではあるのですが、がらくた整理の本質の一端を見ることができましたので、そこにクローズアップしてみたいと思います。
がらくた整理(世間一般では断捨離とも言います)に関しては、今やいろんなメディアで取り上げられます。
特に引っ越しや大掃除シーズンになりますと、雑誌やテレビの特集で「整理・収納・片づけ」の文字をよく見かけます。
ぼく自身はそれらひとつひとつをつぶさに確認したわけではないのですが、過去新聞で取り上げられた記事において、がらくた整理が続かない、がらくた整理をやめた理由というのをまとめていました。
その中の理由のひとつに、「不要だと思って捨てても、後日それが必要になったから」というものがありました。
いらないと思って捨てても、それが後日必要になった。
それだけを読みますと、突っ込みどころ満載です。
「それみたことか!」と。
捨てたくない、捨てる必要がないと感じている人にとっては、大きな援護射撃です。
いいことを並べ立てたとしても、実際問題として捨てたものが必要だったのなら、捨てる必要がなかったんじゃないか?がらくた整理は必要ないんじゃないか?という論理が一気に拡大します。この「守り」の行動は、いったん始まってしまいますと、なかなか緩めることが難しくなります。
では、この論理に対して主張をしてみることにします。
一度捨てたものが再度必要になる。
これは、がらくた整理をしていてもしていなくても、誰にでも起こる出来事だと考えています。
実際に八雲町への引っ越しの際、家人が「書類ケース」の所在を確認してきました。
「空いたスペースに使いたい」というのが、家人の主張でした。
その書類ケースは札幌を離れる前に処分したことを話していたのですが、日々の忙しさで忘れてしまっていたようです。
では我が家の場合、上記のケースが出てきた場合はどう対応しているか?
答えは「新しいのを買ったらいい」でした。
理由としては「手放したモノは、不要だから捨てた」からです。
話が堂々巡りになりそうなので踏み込んだ話をしますと、捨てた書類ケースが八雲町の家の空いたスペースに「使える」とは限らないのです。絶対に使いまわせるわけではないということです。
ですが多くのひとはその細かいところまでを認識しようとせず、大きなくくりで判断をしてしまっています。
「書類ケース」も、いろんなタイプがあるはず。それをくくってしまうのは、無理があります。
そのため、「まったく同じものがここで必要なのか」ということに考えを巡らせることが必要となってきます。そのうえで、捨てたものがほんとうに必要だったのかということについて判断していくべきだと考えています。
引っ越し後の我が家でも、何を捨ててきたのかを忘れてしまっている部分があり、「あれ捨てたんだっけー」という会話がちらほら出ています。ですが一切「もったいなかったねー」ということにはなっていません。「この家に合った、新しいモノを手に入れよう」と話をして双方納得しています。
必要なときには、そのときに合ったモノを揃える。
前からあるモノを長く使うことも大切ですし、新しいモノを取り入れることも大事です。
モノにはいずれも「賞味期限」のようなものがあると思っています。
そのモノがまだ使えたとしても、ピークを過ぎてしまっていたなら、がらくた整理の対象となります。まだ使えるという理由でそのまま残しておくことは、とても大事なことを見落としてしまっているように思えてなりません。
がらくた整理も断捨離も、決してきれいごとではないのです。
自分に向けて自分をさらけだすような、なんとも歯がゆい行為です。
何かと全力でぶつかり合って、命を削るようにしてがらくたを整理していく。
それが、自分が溜め込んだモノに対しての、礼儀のような気がします。