つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

掃除はただ「きれいにする」だけではないことを悟った話。

今朝の八雲は晴れており、とてもいい気持になっています。

 

聞けば八雲町は年間を通して晴れる日が多くはないとのこと。

それでも青い空を見ることができますと、気持ちの入り方も異なります。

 

気温はさほど上がらず、肌寒い日々が続きますが、それももう少しの我慢だと思いたいです。

 

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早番のルーティンワークですが、開店準備に伴う諸作業が含まれており、その中に店内の掃除というものがあります。

 

活動拠点である「ら・ふも」には入り口がふたつあるのと、入り口は風の通り道になりやすい環境となっています。人の出入りもありますから、広い範囲で汚れが付着します。

それを掃除機やほうき・ちりとりなどを使って掃除していくのですが、この作業を行っている最中にふと感じたことは「あ、掃除ってシールドだ」ということでした。

 

 

 掃除といいますと、汚れを取り除きその場所をきれいにするというのが一般的な見方かと思います。忙しいときなどは家の中でも自分がよく行き来する場所のみを掃除することもあったりします。我が家ではまぁあるく(丸く)掃除したなんて表現をしますが、隅々まで掃除するのはどの家庭においても簡単なことではないと思います。

 

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 今朝の「ら・ふも」店内。

 

 

じゃあ何故、そもそも掃除をしたほうがいいのでしょうか?

そしてできれば、隅々まで掃除をしたほうがいいのでしょうか?

その答えのひとつが、「シールド(Sealed)」です。

 

シールドの意味は、その名の通り「盾」。

つまりは「守る」ことです。

 

掃除がなぜ「守る」ことにつながるのか?

その考えについてがらくた整理の経験から書いていこうと思います。

 

 

 

掃除という行為は単純に部屋の中をきれいにする「だけ」ではありません。

きれいにするということは、「浄化」につながります。つまりは「お清め」になります。

何故「浄化」という言葉を用いるかと言いますと、そこをきれいにする際、掃除をしている人の「意識」がその場所に向けられますね。物理的にその場所をきれいにすることと、精神的(観念的)にその場所をきれいするという気持ちが働くことで、はじめてその場所の掃除が済むという流れになります。このふたつの動作が「シールド」の役割を果たすのだと感じました。

 

八雲町の家に入る際、かんたんに掃除をした後に空間浄化を行ったことは過去の日記に書いたと思います。その空間浄化の際も、家の間取りをイメージしつつ、シールドを張るということをやっています。掃除はその簡易版のようなもので、きれいを維持することが守るという意識を維持することにつながります。

 

それができないとどうなるでしょうか。とある部屋には荷物が積まれており、部屋の奥まで掃除ができなかったとします。そのような場合、部屋の入口の、比較的掃除しやすい場所しかきれいにしない(できない)傾向が生まれます。わざわざ荷物を動かしてまで掃除しようとはなかなか思うことはできません。そういうことは大掃除のときにやってしまおうと考えてしまうのが一般的です。

 

お部屋の掃除をする箇所が限定的だった場合、掃除ができなかった場所にはもちろんホコリなどのごみがたまり、汚れてきます。その汚れも一気にではなく、徐々にという感じです。その徐々にという感覚は、少しずつ「守る」ということの意識が薄れていくのと同じペースになります。そしてその期間が長くなってしまいますと、その部屋の中に何があるか?という細かいことも忘れてしまう可能性も高くなり、その部屋を「守る」という意識がなくなってしまいます。

 

その「守り」がなくなってしまうと、果たしてどうなるのか?

統計をとったわけではありませんので確かなことは言えないのですが、まず住み心地に直結すると思います。感覚的な問題としてはまさしく肝心な部分です。そして実際にはと言いますと、家の中に荒れた部分が出てくるということは、人の心にも荒れた部分が出てくるということにつながります。

 

モノがたくさんあるという状況は、現代においては仕方のないことなのかもしれません。

その中でも意識していかなくてはならないのは、「しっ放し」はいけないということです。

モノがあるならあるなりに、どのように整えていくかを考えていかなくてはなりません。

にっちもさっちもいかない状況なのであれば、世間でいうところの断捨離、ぼくが表現するところのがらくた整理をする必要性を訴えます。

 

札幌市から八雲町に引っ越しをしましたが、自分たちが思うよりも荷物はたくさんありました。個人の感覚ではなるべくモノを増やさないようにしてきたことと、定期的に不要なモノは手放してきたこと。それでも実際には荷物が多かったので何とも恥ずかしい限りなのですが、不思議と部屋のホコリは少なくなっていきました。以前ですと1週間に1回の掃除でたくさんのホコリやゴミが取れたのですが、札幌に住んでいた最後のほうでは同じ日にちの感覚でも、ゴミの量は半分以下になりました。しかも、掃除機を新しくしてよりゴミが多く取れるものを使ってもです。この目に見える違いに驚いたくらいです。この違いを考えたときに、自身が納得して言えることは、住んでいる家に対する意識の深さなのだと感じていました。

 

八雲町の自宅は本日、やっと電話工事が入ります。

そのため帰宅後にはダンボールに入れてある書類などを収納する作業が待っています。

もう少しで、ほんとうの意味での「引越」が終わりそうです。

 

八雲町の自宅を住みよい空間にするために、ほんとうの家にするために、引越が済んだ後でも努力は必要だなと感じていました。