つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

めんどくさいからこそ、じっくりしていきたい話。

悪い癖が、いま出まくってます。

 

この事象については自分自身でも嫌になるほど。

つまりは「自分がめんどくせぇ」という状態です。

 

こういう時には何もしないほうが得策だと考えてはいるのですが、こういうときに限っていろんな方面からいろんなことを言われたりしています。

 

それは自分が招いたものでもありますし、そういう時に限って引き寄せてしまう何かがあるような、そんな面倒な、またはやっかいなスキルを持っています。

 

 

 

こんな状態になってしまったときには、なるべく「独り」になるよう意識しています。

その「独り」も、「孤立」ではなく「孤高」を意識して。

ですが、他人からしたらそんなの知ったこっちゃありません。

他人は他人の考えで、ぼくにものごとを言ってきます。

そこで返事を返すのが普通なのですが、うなずくか、返事をしない状態が「いま」。

相手からしたら、反応の悪さにイライラしているかもしれません。

 

もはや言い訳になってしまうことですが

「言葉が見つからない」

状態になってしまっているのです。

 

あれだけ言葉を尽くそうとか、わかりやすい表現でとか抜かしていた自分が、どのように相手に伝えればいいのか、どの言葉を用いれば自分の考えを伝えることができるのかが、わからない状態でいます。そういうときに限って感情的な語句を並べてしまいそうになるのですが、それは却って逆効果に近いことも、過去の経験から学んでいます。

 

どこかで嫌われようとしている。

わざとそんな言葉を使おうとしている。

そんな時期もあったなと振り返っていました。

 

生きていればどこかで人付き合いの面倒くささというのを実感します。

それは長年住んでいた札幌でも、移住してきた八雲町でも同じことだと思うのですが、ぼくはどこかで、札幌での人付き合いとか、未練とか、いろんなものごとを「手放して」八雲町に移住する決意でいました。結果、すべてを手放すことはできませんでしたが。

 

 

 

書いていて、札幌を離れた理由には、自分がどこかで自覚していない考えがあってのことのようにも感じてきました。それは今後、何らかの展開を通じて少しずつ見えてくるのだと思います。そう期待したいものです。

 

 

ただ、時間というものがあります。いつまでもそのままにしておくことはできません。

先延ばしは、やっかいながらくたを生む最大の敵のようなものです。

その難敵を生まないためにも、しっかりと自分自身を整えて、言葉を探さなくてはなりません。

 

見つけた言葉が届こうとも届かなくても。伝わっても伝わらなくても。

納得のいくものを、紡ぎたいと改めて決めました。

 

 

 

 

心身の不調は今日も続いており、きょうの勤務は長く感じました。

明日はきっといい日になる。そのことを信じて、早めに休もうと思います。