睡眠時間はいまだ長くとってしまっていますが、ようやく日常を取り戻しつつあります。
以前にも触れたことはあるのですが、首の近くに何かを打ち込まれたようなコリがずっとあり、そこから不調の波が心身に沁み渡っていました。水分も足りなかったためか、すべての動作で疲れがつきまとうという悪循環を招いていました。あと1日2日休めば、気にならなくなるでしょう。
こんな状況のときは、文字を見るのですら疲れます。ましてや読んで意味を理解することも厳しくなります。相手がどのような意図でその文章を綴っているのか。調子が悪い時には感情ばかりが前面に出てきては突風のように襲い掛かり、感情的になることを挑発するようにも思えました。けど、いかんせん調子が悪いので感情的になることもできず(笑)、ただただその重い言葉を反芻していました。
そして、昨日あたりから徐々にではありますが、文章を読みこむことができるようになってきました。加えて今夜は勤務先の「ら・ふも」で読書会が行われ、勤務だったぼくはそのまま参加(汗)。他の参加者が紹介する本の内容に耳を傾けていました。
その中で感じたこと。
それは、「必要なことはちゃんとやってくる」という感覚でした。
ここ数日。
ぼくはずっと「言葉」を探していました。
ぼくはずっと「表現」を探していました。
それは調子が悪ければ悪いほど、アリ地獄のようにどツボに嵌り、終わりの見えないトンネルを駆け抜けているようでした。いや、駆け抜けている感覚もマヒしていたと思います。
今も「それ」を見つけることは出来ていませんが、以前と違うものを感じています。
それは「答え」ではなく「ヒント」をもらったような感じでいること。
そのきっかけは、今夜行われた読書会でした。
読書会の場でも話したのですが、ぼくは本屋さんが大好きです。
どれくらい好きかと言いますと、軽く「1時間以上」は滞在します。
買いたいものだけ買って本屋を後にするという行為は、よほど急いでいない限りやりません。個人の感覚ですが、それは勿体ない行為だと考えています。
本屋に行きますと、決まって平積みの棚や新刊の棚を数回廻ります。
その後特定のジャンルの棚をチェック、雑誌の棚もチェックしつつ、ゆっくりと店内を1周します。時間をかけて行いますと、ときに強く惹きつけられる一冊に出逢うこともありますし、探していた一冊に巡り逢うこともあります。
この行為は本屋における、ぼくなりの必要な儀式になっています。
ぼくの順番ではそのようなことも含め、本の紹介をさせていただきました。
また、他の方が紹介する本には、純粋な驚きと気づきのヒントが含まれていました。そのヒントに気づいたときには特に驚きはしなかったのですが、不思議と「必要なときにはちゃんとやってくるのだなあ」と感心していました。いや、これに気がつくことが出来たのは体調が戻って来つつあるということと、これまでの積み重ねがあってのこと。それがなければ、この日の気づきは得ることは出来なかったでしょう。
ここ数日。
ぼくはずっと「どれが正解なのか」を探っていたのだと知りました。
ぼくはずっと「答えることで何かが破綻しはしないか」ということに怯えていました。
ぼくはずっと、自己嫌悪に陥っていました。
どんな些細な事でも、すべての責任はぼくにあるかのような顔をしていました。
その暗雲が、少しずつ晴れていこうとしています。
今夜自分が紹介した本や、参加者のかたが紹介してくれた本の中に、前へ進むためのヒントが組み込まれていました。その気づきにまずは感謝し、あとは自分が何を望んでいるかを「はっきり」させたうえで、展開に移すことをしていく。それしかないなと。それでダメだったら仕方ないやと想うことにします。
誇りを持て。
臆するな。
明けない夜はないから。
闇のなかでも、照らしてくれる存在があることを忘れるな。
そんな応援が、どこからか聞こえてきた夜でした。