アタリマエの中に自分勝手が潜んでいないか考えてみた話。
昨日、黒松内町の道の駅での出来事。
その日ニセコのカリンパニへ向かうために車を走らせており、昼食を黒松内町の道の駅でいただきました。
以前もこちらのピザを利用したことがあり、今回も食べたいなと考えていたのですが、まさかまさかの定休日に当たり食することができず。
残念さを発揮してしまいました。
仕方なく他の食べ物に変更し、完食。
その最中でこんな声が聞こえてきました。
それは
「なんでこの道の駅の外にはゴミ箱がないんだ!困るじゃないか」
というもの。
聞き耳を立ててみたところ、会話は噛み合っておらず。結局はクレームをつけた客が「役場に言うわ」と一言言ってその場を後にしました。
その客の言い分としては、ゴミを捨てたいときに捨てられないのはおかしい。こういった公共の場所にゴミ箱を設置しなくてどうする!といったもの。屋内にはゴミ箱はあるものの、外に設置されていないことに不満の様子でした。
この一連の会話を聴いていて、感じることと考えることがありましたので、書き残しておこうと思います。
かんたんにですが調べてみたところ、道の駅のゴミ箱の設置に関する取り決めは見当たらず、現状ゴミ箱を置いている駅と置いていない駅があるようです。
ゴミ箱の設置がどうやら義務ではないところをみますと、それぞれに事情があるのかなと思いますが、利用者はそんなの知ったことではない。車内にあるゴミが捨てられないことに対するストレスが溜まるため、それを解消できるはずの場所で希望が叶わない場合、それはクレームを生むほどのフラストレーションに変わります。
では何故ゴミ箱を置いていないのか?
記憶を元に考えてみますと、見えてきたのはコストの問題でした。
一言で言えば、ゴミを処理してもらうにはお金がかかります。それは自分の住まいでも、どこか別の場所で出したとしてもです。
それぐらいなんとかならんのか~という声が聞こえてきそうですが、塵も積もれば山となるように、ごみ処理の費用も同じ原理になっています。ましてやゴミ箱にゴミを入れる人は不特定多数。そしてどれくらいのゴミが出るかなど、推測できたものではありません。
結果どうなるか。
ゴミの処理に行政の予算をかなり費やすことになります。
それは何を意味するか。
行政の財政を圧迫させることにつながります。
そこからどんなことが予測されるか。
実例としてはないかもしれませんが、処理費用(税金含め)の値上げなどが決議されるかもしれません。
そうなってくると、利用者としては納得のいかない事態を招くことになりかねません。
それらの費用を含めて価格設定をすればいいだけの話だろという意見もあるようですが、それだけで解決するわけではないと思います。
苦渋の決断。というのが、表現としては適していると思うのですが、やむにやまれず、ゴミ箱の設置を見送った(または限定的にした)のではないかと推察します。
この辺りの事情は各地によって様々だと思います。なのでひとくくりにするのは難しい問題かなと感じました。
で。
この会話でぼくがそのクレーム客に感じたことは、「当たり前にあると思っていることの危うさ」というものでした。
そのアタリマエというのも、その人個人の価値観であり、それがグローバルスタンダードに直結するとは限りません。自分が考えていることこそが正しいのだと思い込んで行動してしまいますと、引っ込みのつかないことになります。
その正しさはどの場所に立って言っているものか。
何事か言う自由や権利があったとしても、その主張が何処かに偏ってしまうならば、それは残念ながら偽りの正しさであり、偽りの正義であると言えるのではないでしょうか。
コンビニのゴミ箱も、外にあったものがなくなっていってます。一部は店内に設置してあるところもありますよね。
捨てるという行為にもカネはかかる。
得るという行為にもカネはかかる。
その事実を認知していくことが重要なのだなと感じました。
そして、ニセコから札幌に向かう道すがら。
雲に隠れていた羊蹄山が、その姿を少しだけ見せてくれました。
自然には、人間のアタリマエは通用しない。
事柄には、それぞれの背景や理由があることを知っていかなくてはならないと感じた1日でした。