つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

重さと軽さ、それにかかわる意識の話。

 札幌居住時にお世話になっていた整体(しかも全然痛くない)で施術を受けているときに、こんな話を院長さんがしてくれました。

 

 

それは

「今の歌の歌詞には【愛】は使われない。逆に【好き】が使われている」

というものです。

 

院長さんの話をざっくりと書きますと、現代社会では「愛」はどうやら「重い」ものとして受け止められがちだというのです。逆に「好き」だと「ライト(何故か軽いではない)」なため、使いやすいとのことでした。

 

 

 

確かに。

 

最近聞いていないし、自分もそうだったかも。

 

この「重さ」と「軽さ」の価値観が、以前とは違ってきているように思いました。

 

 

昔からなのか、それとも最近のことなのか。

 

誰かが使うことばの表現に関して「重い」と評するようになったのは周知の事実。

この「重い」が意味するところですが、個人的な見解では「真面目」だとか、「怖いくらいの気持ち」がこもっているものを指すように思われます。表現が難しいですが、楽しければそれでいいんじゃね?という風潮の中で、「○○しないとだめなんだ」とたった一人の人が声をあげたことに対する周りの反応とかになるでしょうか。

 

反面、軽いというのは「手軽に」という印象そのもの。

誰にでも気軽に使えるというものである反面、裏を返せば「真面目な話」が苦手になってきているのではという読みも出来ます。

 

これは仕事での会話が「重い」ものであるから、その他の会話はその重さ感じることのないものにしたいからかもしれませんし、責任社会などと言われてしまっているから、自分はそんな責任という重いものを抱えたくないと考えているからかもしれません。

 

そんなことをぐるぐる考えていると、この「軽さ」や「重さ」は、つまりは「決意」や「覚悟」に直結する、または比例するのではと考えるようになりました。

 

 

決意も覚悟も、重いと言われる分野に入ると思います。

しかしながら、これらのことばは「思いつめた」ものではないと思います。

意訳ではありますが、「決意」は「気持ちや考え(意)をさだめる」こと、そして「覚悟」は「自分自身の心を知らしめる」という風に読むことができます。果たしてこれのどこが「重い」のでしょうか。ぼくはそういう風には思うことができません。

 

冒頭の「愛」や「好き」の話に戻りますが、以前は「重さ・軽さ」で比べる類のことばではなかったと思います。どちらかと言うと「段階」や「順序」のことばです。イメージとしては「階段」であり、マラソンなどのチェックポイントのようなものです。

 

それがどうして「差」を現わす言葉になってしまったのかはわかりませんが、背景には社会情勢が関係していると思いますし、その他の原因もあると思います。いずれにしろ、ことばが従来の使われかたをされなくなってきているようです。

 

言葉は本来、もっと何かに重きを置いた重要なツールであったと思います。

しかしそれが他のツールに押されることにより、重要性が希薄化した。

そのため、使い方も大きく変わっていったと考えるのが自然かもしれないです。

 

いまの見解で言う「重い」ことば。

それは果たして、敬遠されるものばかりなのでしょうか?

それをただ「重い」と決めつけているだけではないのでしょうか?

そこには人と人との関係も大きく影響していますし、その人の心の成長の度合いにも関わってくるような気がしています。

 

 

 

ぼくはどちらかと言えば、「重い」とされることばを用いていると自覚しています。

これはもう性格です(笑)

軽いことばも使いますが、重いことばを使っていかないと、その違いを他の人に伝えることは難しいです。

 

表現の違いで段階を踏むことが出来ないのであれば、重さと軽さの違いから、表現したいことの違いを受け手に感じ取ってもらうことも必要になってくる。これからのことばの表現は、伝え届けるということは、これまでとは少し違った意味合いのものになってくるのではと感じています。

 

 

重いからといって、軽いからといって。

そこで安易に決めつけてしまうのは、どこかで損をしてしまうなと考えていました。