もっと、のはなし。
浮かんでは沈む。
その繰り返しだと言ってもいい。
人生を表現することばのひとつとして、こんなことばがあります。
北海道八雲町に移住してから、順風満帆だとはお世辞にも言えないです。
移住当初からいろんなアドバイスをいただくのですが、それが焦りにつながったりするなどしたため、及第点だとは言えないと認識しています。
自分の心が平穏ではないと、必ずと言っていいほど何かを引き起こします。
その引き起こした物事の大きさによって、いろんなところがケガをします。
時間が経過するにつれ、やがて人は日常の生活に慣れていくのですが、そこまでの道のりが果てしないもののように感じながら過ごしていくのです。
ケガしたところが徐々に治り、普段の生活に戻っていくのは「普通」のこと。
大事なのは「どうしてケガしたのか」ということと、「どうすればケガしないのか」ということ。
そのほかにも、大事なことは散りばめられているように思う。
今回のケガは、悲壮感が呼んだケガでした。
焦りが呼び寄せたケガでした。
ネガティブがネガティブを呼んだ、「なんなの、マジで。」という結果のケガでした。
こんなケガをしても、やがては治るし、忘れていく。
それではきっと、ダメなんだと思う。
そのケガをどのようにして受け止めていかなくてはならないのか。
そこから自分は「どうしたい」のかを、しっかりと考えないと、また同じケガをする。
それだけは、さすがにイヤです。
だから、もっと。
いまの状態から、もっと。
いろんな言い方があるけれど、強くならないといけないし、落ち着かないとならない。きれいにもならないとって考えることもあるだろうし、勉強しなくちゃと考えることだってある。お金もそう。筋力もそう。何かしらの力である場合や、こころや考え方のエッセンスだけの場合もある。
いずれにしろ、「そこ」の増量なのだ。
もっと、なのだ。
この意欲がなくなれば、自分は死ぬだけ。
意欲がなくなれば、抜け殻も同じ。
そんなふうにはなりたくない。
もう、あの苦しみだけは、選びたくない。
いまいる状況も「自分で選んだ」けど、堕ち込んんで沈んでいく、それだけのための選択などもうこりごり。
だから、もっとなのです。
これからの自分の姿を相手が見ることがあってもなくても。
この「もっと」がある限り
ぼくはまだ、自分の物語を進めることができる。
だからどんなにケガしても、苦しいと思っても。
そこからもっと。
そこからもっともっと。