つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。このたび不定期更新に切り替えました。

新しい地元「八雲町」の行事に参加して感じた、スピリチュアルなことについての話。

八雲の山車行列を無事に終えて、筋肉痛も癒えて。

 

八雲町にも蒸し暑さがやって参りました。

 

夕方以降には深い霧(というかもはやガス)に包まれてしまいましたが、1日通してやっと半袖でいることができる時間がやってきました。

 

 

 

山車行列で踊りましたのも、ほんの1週間前です。

それもなんだかずっと前のことのように思います。

そう思うのは、年齢を重ねたからですね(笑)。

 

 

 

さて前回は純粋に山車行列に参加した感想を述べていましたが、今回はちょっと視点を変えて「スピリチュアル」な視点から見てこうと思います。

 

 

というのも、御輿を担いで、山車行列で踊って感じたことは、「これはスピリチュアルだ」ということなのです。

 

なんじゃそりゃ?という話しになってしまうのですが、それはなんといいますか、あそこで御輿を担ぎ、そして踊らないとその感覚はわからないかもしれません。

 

 

そのため表現できるところだけでも説明していくことにします。

 

 

まず「声」。

 

御輿のときも、山車行列のときも「声」を張りました。

行事の終わりには声がガラガラになるほど。

普段そんなに声を出していないから、尚更です。

 

 

以前一度だけ、北海道神宮にて禊(みそぎ)の体験をさせていただいたことがあります。

結果その1度きりになってしまいましたが、禊を行う際にも「声」が重要な要素を担っていました。

 

 

よく「咽喉ではなく肚から声を出せ」と言われました。

というのも、咽喉で声を出しますと、すぐに声枯れしてしまうのと、その声には「伸び」がないのです。つまりはすぐにかすれてしまうということ。最初だけ高くて、すぐにどこかに紛れてしまうのです。この声を出すという行為は、身体と心、そして見えない何かの「炎」に火をつけたように思います。言い換えれば「活性化」だと思います。

 

肚から声を出すということは、遠くに届けるとともに、自分のなかにも届けていることを知った気がしました。

 

 

 

次に「踊り」。

 

踊りだけではないのですが、御輿のときのことを総合して言いますと、「くまなく歩く」となります。ただ歩くではなく、「くまなく」というところがミソのような気がします。

 

普段私たちは多かれ少なかれ歩いていると思います。

ではその範囲はどうでしょうか。

ひょっとすると、長短はありながらも「決まった範囲」しか歩いていないかもしれません。

 

御輿渡御も山車行列も、普段歩かないところを歩きました。

しかも「くまなく」。

一般道を通行止めにして、道路の端から端まで踊ったりもしたので、普段ではなかなかできない行為です。単純に道路の真ん中を歩くのでさえ、思えば貴重な体験です。その中を「自分のペースではない」ペースで歩くというのが、とてもいい刺激になったのではないかと感じています。

 

踊りも普通に歩くことも、かんたんなことではありません。

しかしそんな環境において、疲れが増すとともに訪れるものを感じました。

 

 

それが「無垢」だったように思います。

 

 

 

これは言い換えれば「無心」または「無為」になるだろうかと考えています。

 

つまりは「意識しながらも意識からはずれたところにある状態」とでも説明すればいいでしょうか。

はい。自分でも何を言ってるんだか(笑)

 

 

 

やることははっきりと頭の中に入っているのですが、最初はやれ寒いとか恥ずかしいとか言っているのですが、そのうちそれすらも考えなくなります。気がつけば自分の姿を真剣に見て下さっているかたや、満面の笑みで拍手をしてくださっている方が視界に飛び込んでくるのです。その踊りの上手い下手関係なくです(最後のほうはやっと慣れてきましたが、やはりまだまだというのを痛感しました)。

 

この「考えない時間」がここで体現できるとは思いませんでした。とても貴重な体験です。

何故なら意図せずに、自分はこの八雲町という場所で「グラウンディング」をしていたのだと実感したのですから。まさしく「地に足がついた」瞬間でした。

 

 

 

同じく踊りをされていた役場の職員さんからも、「最後までよく頑張ったね」と労いの言葉をかけていただいたことも、上記のことが出来ていたからのような気がします。意識していますと、どこかで甘えがきたでしょう。実際足が痛くてリズムが合わなくなった時間帯があり、気持ちが萎えそうになりました。それがどこかで「どこかで見てもらうんだ」とか「最後まで見てもらうんだ」という気持ちがどこからか湧いて起こり、最後の最後まで務めあげることができたのです。これは大いに自信になりましたし、恩恵を授かったようにも思いました。何となくですが、「歓迎の儀式」が無事に済んだような気がしました。

 

 

 

 

最後は「心」。

 

心は、顔に出ます。

心は、動きに出ます。

心は、気に出ます。

 

観客は、それに気づくことでしょう。

 

 

大変だろうなとは思っていらっしゃるかもしれませんが、実際えらい大変ですし、キツイです。この中で心を保つのは、慣れだけの問題ではないと思います。それ故に、お祭りがもたらす「恵み」のようなものがあるのだろうと感じています。

 

いつだかの日記で、「スピリチュアルは日常のなかに」という記事を書いていました。

 

いまは、でしょうか。特別な環境の中にこそ、特別な行為の中にこそ、求めるスピリチュアルが存在していると解釈されるようになったのは。しかし実際は「そうではない」ということがわかります。特別なことをしたからこそ訪れるものではありません。スピリチュアルは、その人にだけ何か「特別なことをもたらす」ものではないからです。言い換えれば、普遍的なことを「いつも」、スピリチュアルはもたらしています。そこからどのような要素を引き出すか。その判断や解釈を「委ねられている」と表現したほうがいいのかもしれません。だからこそ、その解釈ですら混沌としているのですから。

 

 

 

現在、ぼくは毎日何かしらの特別なことをしているわけではありません。

しかしながら、ぼくの周りにはスピリチュアルが溢れています。

もう普通に、「そこにいます」。

以前は何か特別なものを得ようと修行したこともありますが、今は行っていません。

唯一行っていることは、「軸を意識する」ことだけです。

 

 

それが果たして正しいかどうかを判断することは出来ませんが、これはいまぼく自身が必要だと感じて行っていること。それに対して自分の中が納得しているからこそ、いまという時間に続いているのです。

 

 

 

八雲町では、いろんな経路からスピリチュアルを学ぶことが出来そうです。

それはリアルという側面においては、定住や何かしらの確立に向けての経験と言えそうです。

 

 

 

そんな考えがよぎった、山車行列でひたすら踊っているときに「悟った」一瞬の出来事でした。