つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

3年目のこたえ。

北海道八雲町に移住して、早半年が過ぎようとしています。

過ぎていった時間というものはあっという間のものとなっていて、どのような心境で過ごしたかなどまったく関係なく平等に突き抜けていきました。

 

北海道八雲町の地域おこし協力隊に着任して、自分なりにいろいろと考えていることがあります。

それは、「じぶんは八雲町になにができるか」という、禅問答のような問いです。

 

その問いの背景には、地域おこし協力隊として着任し、ミッションに取りかかなければならないという事情もあります。

他の側面で見ていきますと、これからのぼく自身の人生の過ごしかた。始末のつけかたというふうに見ていくこともできます。

 

肩書をつけて移住してきた以上、何かしらの実績または成果を残さなくてはなりません。

その重みは徐々に感じてくるのですが、移住してきた当初はいつその重さがかかってくるのかもわからずに過ごしていました。

 

 

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そうこうしているうちに担当が決まり、出来るところからはじめています。

その分野も一気に進められるものではなく、カメのような速度での、着実な歩みになります。

 

一方で、自分の強みを出せたらとも考えていました。

 

その強みを考えますと

・がらくた整理

・オラクルカード

・自然体験活動

になるのですが、どうやって出していくかが問題です。

 

そんな中でふと見惚れた場所があります。

 

 

それは函館出張時にも訪れたことのある、「道立噴火湾パノラマパーク」というところでした。

 

ここについては以前日記に触れたのですが、高速道路の「ハイウェイオアシス」でもあります。

高速道路からも、一般道からも訪れることができるところになっています。

ここのパノラマ館という場所は屋内の大部分がこども向けの遊び場となっており、休日は家族連れでにぎわっています。

 

 

「この場所に木の遊具を置きたい」

 

 

はじめはこの一言でした。

自分の中からうまれた言葉が、自分を突き動かしました。

 

  

「ここでイベントをやりたいのですが」

 

と、自分が「北海道木育マイスター」であることと併せて伝えますと、どうやら八雲町では毎年同じようなイベントを別の場所で行っていたことがわかりました。しかしそれとは別に企画を打ちたいという気持ちを理解してくれ、

 

「わかりました。では企画書を持ってきてください」

 

と、相手の言葉が出て、企画書の制作にとりかかりました。

 

 

 

これらの会話をしたのが5月初旬~中旬ころ。

いくつかの場所で話をしていって、最初の企画書をまとめたのが6月28日。

この時点でかなりの時間が経過していました。

 

そこから実際に「何を用意するか」「誰に協力を依頼するか」など

課題が山積みになります。他の会合にも顔を出し、紹介をいただいた上で自分の企画の説明をしては、協力をいただけるよう話をさせていただきました。

 

基本はそれの積み重ねで、いくつかの協力をいただくことができました。

 

7月に企画書の2稿を

8月に企画書の3稿を。

現在は最終稿をまとめています。

 

その間、予算を割り当てることができないとわかったりしました。

ぼくの所属は「町」であるため、どこの何にお金を使うかは予算編成で決まってしまいます。

そのため、年度の途中で出てきた案件に関しては、その時点ですぐには資本(予算)を割り当てることができなかったのです。

そういった「そもそもの話」にぶつかりながら、予算ゼロ円でもいいよという人に出逢い、形式をまとめながら、8月の終わりに所属課長へ「事業実施伺」を提出。

 

所属全員の捺印をいただき、実施の許可がおりました。

 

 

 

その企画(イベント)ですが、

噴火湾木育(もくいく)ひろば」といいます。

 

ぼくが北海道木育マイスターとして、地域おこし協力隊として、両方の立場で出来る八雲町へのプレゼンテーションであり、アピールなのだと考えています。

 

 

 

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木育(もくいく)とは、造語です。

いまやこの言葉は全国に広がっていますが、運動自体は北海道が始めたものです。

テーマは「木とふれあい 木に学び 木と生きる」となっています。

 

解釈はひとそれぞれなのですが、各々の生活シーンに何らかの「木」があればいいねという感じになるでしょうか。木に触れることは情操教育にもいいとされていますし、セラピーの役にも立ちます。まだまだ可能性を秘めている「木」の力を感じましょうという運動になるのではと感じています。

 

 

 

企画したイベントには、予算がゼロ円のなか、以下のものを用意する予定です。

 

「木の遊具」

・スギックモック

・木の池

 

「ワークショップ」

・きぼうプロジェクト

・木工体験ワークショップ

 

「パンフレット・資料展示」

・八雲町や木に係るしごとの展示

 

最初は大きな絵を描いていましたが、結果としてこの規模になりました。

本来ならば、もっと小さくても仕方のないことでしたが、事情を察してくれる

知り合いなどもおり、報酬は一切なしであることを承知のうえで協力してくれる民間の団体もおります。

 

それ以外は、もともとある資材を活用することと、木育マイスターということで条件が減免され、利用できるという制度を活用しています。

 

 

先日、ポスター掲示をお願いしに町内を少し回りました。

 

開催場所でもあります噴火湾パノラマパークのホームページでも、イベント紹介として記事が掲載されましたので、いよいよという感じがしています。

 

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本来ならば取材をお願いしたいという気持ちもあり、各社にメール等をさせていただきました。しかし、ご存知のように大きな地震がありましたので、こういった内容には興味を示されないかもしれません。その時は縁がなかったとしましょう。

 

 

現在はボランティアの募集をはじめているとともに、最後の詰めで調整を行っています。なんだかんだありつつも、ここまで来ることが出来ました。これが慣れている人にはなんてことないのでしょうが。

 

 

 

 

 

ただ、いちど本気でやろうかどうかを迷ったことがありました。

 

それは先日の胆振東部を襲った地震で、北海道全域が停電となり、一瞬ですが先が見えなくなりました。

その後八雲地方はほどなくしてライフラインが復旧。実家の札幌市厚別区も被害は一部のみということで、深刻な被害はなし。震源に誓い場所は引き続き厳しい状況でありながらも、社会は着実に日常に戻ろうという努力を始めています。

 

この地震のあとに実は畜産の研修を受けるため、数日間世間とは離れた場所でひたすら学び続けていました。そうこうしているうちに、復旧の報道が入り、ある程度の見通しがたち、「企画は中止しない」と心に決めることとなったのです。

 

 

心では決めても、実際は悩む、といいますか、いつだって考えることがあります。

 

「これは単なる自己満足ではないだろうか」

 

この企画を係長に話をした際、「人が来るとは思えないんだけどなぁ」と率直な意見をいただいたことがあります。

 

イベントをやる以上、やはり人の数は重要になってきます。

ぼくも企画書を書いた際には、期間中に八雲町の人口の半分を目標にしますと書きました。

これは地震の影響も考えて考慮しないことにしましたが、この問題は誰もが持っている問題です。また、それだけを論点にしてしまえば、町内のイベントのほとんどは開催ができないという現実をもっています。

 

ぼくの置かれている立場上、こういった催しは「成功」を収めなければならないようです。つまりは「確実な成功」です。

それって、民間でもハードルが高いものになるはずです。

確約できないならやるな、とまでは言われませんでしたが、係長の声はおそらくほかの多くのかたが抱いている意見でもあるのだなと感じています。

 

 

 

 

ここからは個人の主張であり、ワガママと言われても仕方のないことなのですが

 

まず、この事業をやることの意味と意義を考えました。

木育という言葉は道庁の調べでも年々関心度が上昇し、産業を後押ししています。

木育というからには、木に係る仕事がいま見直されてきています。

八雲町には木が全体の8割を占めており、日本の縮図のような場所です。

「ちょうどいい田舎」と言われているこの場所で木育をやるということは、地元への産業のアピールにもなりますし、都会への提案を行うことにつながります。

 

次に、地域おこし協力隊として、個人としての活動実績を遺したいという想いがあります。

町から与えられた仕事だけをこなすことでもいいと思いますが、ぼくにはそれができませんでした。

自分なりのやりかたで、八雲町に貢献したい、ご挨拶をしたいと考えたのでした。

 

最後は、自分の「いきかた」を「こたえ」として示すことでした。

そのきっかけのひとつは、3年前の10月にさかのぼります。

そのとき、ひとりのかたをチームでサポートしていました。

そのかたは「点描画」のアーティストで、スピリチュアリストでありながらもリアリストでした。

 

ただ、周りの呼吸が一切合わず、自分の主張ばかりを通そうとし、自分が悪いと一切思わない人がいたため、そのかたに事情を話してサポートからは離れました。

 

その後も自己中心的な人はそのグループに居座るとともに、類は友を呼ぶといった現象そのままに、イニシアチブを取り合う人間の巣窟となっていったようです。

 

現在のサポート体制はどうなっているかはわからないのですが、その渦から脱却し、平穏なサポートをされていると聞きました。

 

 

実は、3年、という期間は、ぼく自ら定めたものではなく、その方から自然に出てきたものでした。

 

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その3年が、来月になります。

 

この3年間、そのかたとはお話しする機会がありませんでした。

今年になってからは移住をしましたので、お逢いするチャンスもほぼゼロになりました。

 

しかし、ぼく自身はあの日の会話をしっかりと覚えています。

 

そのうえでの「いきる」ことにつなげていますので、ここでの生活と活動が、そのかたに示す「こたえ」だと考えています。

 

 

 

今回の企画も、その「こたえ」の一部になります。

それは何も、サポートから離れたことに対するものだけではありません。

他の方にも、いのちを込めてお伝えすることができる「こたえ」だと保証します。

 

ここまで書いてしまいますと、もはやビッグマウスになってしまいますが・・・

 

 

少し早い気もしますが、自分があと何年生きられるかはわかりません。

なので、伝えたい人にいつまでも伝えないと、一生伝えられなくなってしまうと考えています。もう逢える機会がなくてもです。逢えなくても、伝えることは出来ると、今の時代では思います。それはスピリチュアル的ではなく、リアルでです。

 

 

 

八雲町地域おこし協力隊としての「1年の生きざま」。

サポートから離れた、年が離れた友人に対する「3年のこたえ」。

この場所で「いきる」ための、「残り時間の意思表示」

節目を気にしていては何もできませんが、ぼくは何かしらの区切りをつけたいのだなと感じています。

それもどうかと想うのですが 汗

 

 

 

 

周りにはどのように見えて映るかはわかりません。

ぼくにできることは、「いま」できることをやる。

それが、あの日の大きな後悔を払しょくせんがための、命をかけた展開なのだと気づきました。