だいぶ風邪がよくなりまして、ようやっとマスクをつけなくてもいい生活に戻ることができそうです。今回の風邪は主に咳と鼻水、たまに微熱でしたが、以前ひいた風邪よりも長引いた印象がありました。やっと日常に戻れること、嬉しく思います。
連休に行いました「噴火湾木育ひろば」の後も、ちょくちょく会場となりました「噴火湾パノラマパーク」には足を運んでいます。
いまとなっては「よくあんなイベントをひとりで手掛けようと考えたものだ」とそれは恐ろしい気持ちになっているのですが、やはりこれは自分の人生の中でも極上の時間であったと言えます。
日常に戻ったパノラマパークをよく見渡すのですが、いまでも余韻に浸ることがありますし、感謝を告げたりもしています。それほどここは、自分にとっては片思いの相手でした。受け止めてくれたかどうかはわかりませんが、とりあえずは「伝わった」と自負しています。
この想いをカタチにするのは、とても大変でした。
以前にも同じような内容で日記に書いた記憶があるのですが、改めて感じましたので書き起こそうと思います。
企画を「イベント」としてカタチにするには、大まかにこのような行程がありました。
・考えを文字にして文書とし、他人に見せること
・想いを行動に移して人と逢い、考えや想いを他人に伝えること
もう、これの繰り返しです。
これを納得いくまで繰り返した結果、このようなイベントにつなげることができました。
この模様はNHK北海道のニュースでも取り上げられ、八雲町の名前がメディアを通して伝えることができました。
ただ、これはひとつの「実例」であるとしか言うことができません。
なぜなら、今後も同じように「カタチ」にしていくべきことがごろごろあるからだと、余韻の粗熱がとれた頃にふと気づきました。
これを今後も続けていく。
そう考えると、げんなりします 笑。
何故ならば、大きな理由として「短期間」だからできたことだと言えます。
ゴールが予め決まっていて、そこまでに出せるものは全部出すと決めて取り掛かるので、その間だけでもへこたれなければ、最後まで辿りつくことは実質可能です。
エンドロールはそれこそどれだけ注力できたかによりますが、相応の結果を認めることができるのではないかと思います。
しかし、これが延々と続くとなりますと、話は変わってきます。
状況を変えて話をしますと、職場の中で折り合いが悪い同僚がいるとします。
その同僚とは仕事上、これまでに何度も衝突をしていて、正直空気が最悪です。
「腹を割って話そう」と提案を受けても、「コイツにはわからない」と否定的です。
正直、この状況が続くのは、ストレスでしかありません。
「話そう」という姿勢は、具現化しようとしているからいいことだと思います。
反面、話をするのを拒否しているのは、大事な何かを止めてしまっていることになります。
話をしたくないという姿勢は、「具現化は辛いから」というよりも、「無意味だから」という見解が強いように思います。それはもう、辛さや苦しさなどを直視していないように思えてなりません。
かといって、その姿勢を責めてもいけないように感じます。
何故ならば、そうなった理由があるからで、その原因の出来事が元凶であり、その人自身が原因ではないからです。どのようなことでも言えますが、何かをカタチにするには「辛さ」が伴います。それは体力的な問題や、時間的な問題などになります。しかしそれをものともせず、継続していった結果が、目の前に現れた現象に他なりません。
本来、望むべきカタチは。
具現化するまでの辛さはわかるけど、それをやろうという気持ちになってもらうこと。
そうしなければ、何事の解決には向かないと思います。
黙ってやり過ごすという方法もないわけではありません。
しかし、それが通用するのは「一時」と言わざるをえません。
時を変え、人を変えて、「それ」は再び、その人の下に舞い降ります。
不思議なことではありますが、それが「因果」というものなのです。
原因があるから、結果があるのです。
何も、辛いことを楽しく感じましょうと言っているわけではありません。
ムリに楽しく感じようとしなくてもいいと思います。
肝心なのは、その辛さを凌駕する、強い想いはあるのかということです。
その「ゆずれない想い」はなにか、ということなのです。
具現化をしたいけど・・・と考えている人も。
具現化なんて意味ない・・・と考えている人も。
頭の中だけで終わらせてしまうのは、もったいないことだとぼくは想います。