大いなる支え。
絶賛黒歴史発動中ですが、そのさ中に農林課林業係からお誘いの連絡が入りました。
以前から「木の枝なんかを一緒に取りに行こう」と言われており、昨日同行することが出来ました。
不思議なもので、こちらが堕ちていたのを知っていたかのようなタイミングでのお声掛け。
大変ありがたく思いました。
向かった先は町の林道なのですが、そこまで奥深く入るわけではなく、急斜面を少し上った先にある、予め伐り倒してある木々を対象に行われました。
この日はツナギを身にまとい、防寒対策を施したうえでの作業。
手ノコを携え、ひたすら枝を払いました。
興味を引いたこと。
それは、狭い範囲でも様々な樹があったということ。
その日は曇りの天気ではありましたが、朝から断続的に雨が降っており、樹皮の汚れが雨で洗われ、独特の模様を見せてくれていたのです。
さまざま樹皮を見ながら手ノコを用い、トラックの荷台に積める長さにまで調整をしていきます。
その間、後になってから気が付きましたが、「無心」になっていたとわかりました。
この「無心」。
しばらく遠ざかっていたような気持ちを抱きました。
常に何かを考えいた。
それゆえに疲れも感じていましたし、色んな感情を引き寄せてきました。
この「無心」は、それらを手放し、何もない状態を創りあげるもの。
ここ最近のぼくにとって必要なエッセンスであることは間違いありませんでした。
無心になることは、これまでにも経験してきました。
その代表格が「ヴィパッサナ瞑想」であり、「座禅断食」であります。
しばらく「行をする」ことからは離れていました。
個人の考えでは、上記の行は何かしら力を得るために行うものではないという認識でいます。今年は特に瞑想にスポットが当てられていましたが、集中力を高めるなどの効果を期待してということでブームになりました。これらは「状態をつくる」ものであり、何かを得るのとは少し違う気がしています。
久々に、無心になりました。
無心になって、身体を動かして。
四苦八苦になって、体力の無さを痛感して。
そんななか、ふと樹から香りが漂ってきて。
何かしらの気づきを得たような感覚になりました。
おバカな話ですが、単純にもこのような作業で「毒気」が抜けた感覚を得ました。
まさしく「山」が、アースの役割を果たしてくれました。
身体を動かしていたことがその効果を促進させてくれたのだと思います。
この日は長丁場の勤務となり、疲労感が漂っていましたが、いやな気分ひとつせずその後の仕事に打ち込むことが出来ました。
ぼくは自然をときおり「サムシング・グレート」と呼んでいます。
見えるような見えない存在として、とても尊敬しています。
いや、尊敬という表現では足りないくらいです。
今回の取り計らいは人を通してになっていますが、個人の感覚では八雲町の自然が招いたのではないかと感じています。そのように解釈するのは自己中心的なのですが、八雲の自然とともに生きていきたいと願う移住者への、ささやかな配慮であったと感じたいところです。
何にせよ、この出来事はぼくに「まだ早いわ」と言わしめる出来事となりました。
通常運転までには時間がかかりますが、この恩恵を忘れずに過ごしたいと思います。