つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

「終わり」を決めるのは。

気がつけば12月も初旬が過ぎようとしています。

12月は師走と言いますが、思い返せば毎月が師走だったような感覚があります 笑。

 

お蔭様で忙しくさせていただきました。

この感覚こそが、八雲町に移住して実感できることのひとつになっています。

 

報道などを観ていますと、実に様々な問題についてやりとりが行われています。

報道の中身でものごとを伝えれば、審議の内容をまともに取り合わなかったり、相手に資料の詳細を示さなかったり、過去の話をぶり返しては「まだ終わっていない」と掛け声をかけたりと、なかなか安穏とはいかないようです。

 

移住してから改めて新聞を購読するようになり、報道にもつぶさに耳を傾けるようにしましたが、そこでなんとなく思うことは、「これは手を変え品を変えての繰り返しになってはいないだろうか」という不思議さでした。

 

 

 

ものごとの「終わり」。

 

この世界にいる以上、この終わりを告げる、または決めるのは紛れもなく人間です。

それはひとつの判断として用いられ、そこでかじ取りが次の方向へ定められます。

そのようにして進んできたと思うのですが、素朴な疑問として抱いたことは

 

 

「その終わりは、人間が決めているのでほんとうに正しいのだろうか」

 

 

というものでした。

 

 

 

その根拠は、「輪廻転生」という話に拠るのですが、

 

自分と言う存在は、その時代の魂と肉体を借りて人間界で生き、必要な経験や「やるべきこと」を行い、最終的に輪廻から外れるための「解脱」を目指すとされています。

 

その道のりはまさに千差万別で、順調に進む人もいれば停滞(繰り返し)する人、そして昨今ではその務めを放棄(自死)する人も出てきています。

 

生きているあいだに終わらせてしまうものはたくさんありますが、それを「終わり」と認めているのはひょっとしたら当人のみで、他の存在が判断した際には「終わり」とは認められないのではないか、というのが今回の素朴な疑問でした。

 

 

 

 

「これはもう終わっています」。

 

このように言うのは、実はとてもかんたんです。

それを元に区切りをつけることも、おそらくかんたんなはずです。

 

しかし、同じこと、似たようなことが再び目の前に現れたときに、その人は果たしてどう思うでしょうか。

 

自分の何かを責めず、相手を責めると思います。相手の非をはじめとしたあらゆるものを責めます。そこには「どうして」を含めたものもあると思います。

 

「もう○○なんだからほっといてよ」

なんていう言葉もあるかもしれません。

 

しかし実際は、「終わって」いなかったとしたら。

その責任は、相手にではなく一気に自分自身に降りかかってきます。

そのとき、その人自身はその事実を受け容れることができるのでしょうか。

はい。かなりな確率で難しいと思います。

 

理由は簡単です。自分が原因だとは思わないからです。

順調に、幸せに過ごすことが出来ている現状にどこも「落ち度」がないと思うからです。

 

その事実を、おそらく生きているあいだに知らされることはない。

一説には、その評価裁定はその時代の死後に行われるといいます。

そのときに、「はい。これ終わってないから次の時代でもやり直しねー」と定められてしまうことも可能性としてはある訳です。

 

まぁこの時点で不確定要素満載なので既に疑わしい話なのですが・・・

 

 

 

もう一つの根拠は「先延ばしの心理」になります。

 

ひとは「終わり」の決定をときに「逃げ」や「打ち切り」などを含めたものとして用います。

 

つまりは、うやむやなままにして、以後一切手を付けないということになります。

 

 

がらくた整理のときに何回か書いてきましたが、この「先延ばし」のつけは必ず生きているあいだ、それも周期性をもって必ずやってくるというのがわかっている事実になります。

 

この「終わり」というものをしっかりと捉えず、自身の都合の良さの追及のために使っていたならば、今後どんどん過去に終わらせていた「はず」のことがやってきます。

その時に「なんで今更」と想うことは少なくないと思います。そして相手を責めます。

相手の無礼を、そして非礼を。充実した時間に水を差すなと厳しい口調になります。

 

いまはメールをはじめとしたいろんなツールがありますので、簡単に上記のような文言は相手に贈ることが出来ます。電話も手紙もあるのに、一番簡単な方法で済ませようとします。それは必ずしも、終わらせるための適切な方法なのかを考えたことはおそらくないはずです。

 

 

 

世の中には「自然消滅」という終わり方ももちろんあります。

しかし、変なプライドから決めた終わり方も存在します。

そのときにどんな終わり方が適切なのかはわかりませんが、相手を置き去りにして自身の利益のみを追求する終わり方は果たして生きているあいだに課せられたものを消化するのに値するのだろうか。

 

 

 

あたまでっかちなぼくは、終わりとされてしまった様々なことを想いながら考えていました。