人は人を「媒体」としか見ていないのではないだろうか?
先週末は統一地方選挙の前半戦だったそうです。
(つまりは今週が後半戦)⇒誤りでした。次の週でした 汗。
先週は北海道知事選挙・札幌市長選挙や道議会議員選挙など北海道における主要な選挙が行われていました。結果をどう捉えるかはお任せするとして、北海道知事選挙は夕張市長の経験がある鈴木直道さんが当選。札幌市長選挙は現職の秋元さんが当選されました。
そのほか、道議会議員選挙も滞りなく開票されましたが、渡島地方の道議会議員選挙は無投票(定数2に対して立候補2)で終結。八雲町に住んでいる人は北海道知事選挙の投票のみで終わりました。
投票日は選挙速報も少し見ていたのですが、最近はあまり報道に触れていない生活をしているため、具体的なことは何も知らずにいました。
結果としては30代と若い鈴木さんが当選しました。
ここで世論は新しいリーダーの誕生だ!となればいいのですが、どうも恨み節ですとか、ケチをつけるものが多いようです。その背景には公約の内容などによるのですが、ここで感じたことは「候補者」よりも「公約」のほうを人は注視しているのかなというものでした。
鈴木さんの応援には今回、主に政権与党がついていました。
いっぽう対抗馬として擁立された石川さんには、野党が応援にまわりました。
「if」の話になりますが、応援している存在が「逆」になったとしたらどうなるでしょうか?
批判の構図は全く変わらないと思います。
鈴木さんの公約は主に与党の考えを汲み、石川さんのそれは野党のものを汲んでいます。
有権者は人を応援するのではなく、政党を応援しているという性質(ではないかもしれないけど)があることから、政党が推し進めている政策等を公約として掲げる人を応援し、票を投じます。
つまりは、「人」に票を投じているのではない?とうこと。
だからこそ、選挙中でも平気で候補者の批判をするのだと思います。
遊説のときは政策内容でアピールします。
もちろん、実績でもアピールします。
日本でしか見ることのできない光景です。
相手の批判を繰り返し、自分を良く見せようとする手法は世界各地で見ることが出来ますし、それこそが王道だと捉えられている一面があります。しかし、それで得た席に何の意味があるのだろうかと考えてしまうことがあります。
相手の批判をして、陥れることは至極簡単です。
それがビックマウスであろうと、です。
しかし問題は椅子に座ってからです。
座ってから「何もできません」では、その人のために時間を割いてくれた人に申し訳が立ちません。
就職にも言えることですが、面接試験の時にアピールしたことが、実際に現場に入ったところ何もできないことが判明したというのはよくある話です。少なくとも候補者はビックマウスも使いますが、相当の実績も持ち込みます。最初から「この人は何もできない」と断言するには誤った判断であろうというところです。
今回、ぼくは鈴木さんに投票をしました。
理由ですが、報道ではありますが東京都の職員であった彼は出向で夕張市に着任し、数年間の勤務の後に夕張市長になります。その際の努力をまったく知らないわけではないということと、彼の著書を読んで実感するものがありましたから、政策は抜きにしてその人の「これまで」を主軸として判断しました。
「これから」に対して、誰かはさもわかったことの様に口にします。しかし、そこに保証や確証は何もありません。それが異なっていたとしても、本人ですらそのことを忘れる程度のものでしょう。それなのに目の前のことについては勢いをつけて同じことを言います。正誤ではなく、それを指摘していることが正しいかのようにです。
若さを懸念するのも、正直おかしいと感じます。
そんなに不安視するのであれば、お前が出ろよ!と言いたくなるほどです(与野党ともに)。それをしないで陰であれこれ言う人ほど、知ったかぶりといった表現が適当な人ではないでしょうか。
何はともあれ、新しい元号を迎えるにあたり、北海道の首長が変わります。
課題は山積していると言われています。結構ネガティブな意見が多いです。
しかし。
彼の頑張りによって、例えば内定の6割ほどが辞退するという北海道庁の職が人気を増し、辞退率が大きく減少したとしたらどうであろうか?彼が首長になったことは、北海道の今後にとっては大きな投資であったと言わざるを得ません。
選挙は終わりました。
人も決まりました。
今後は、その人を見守り、応援していくだけです。
この時点で批判をしていては、「政治をやらせない」ことを目的とした活動と同義になります。
北海道は「攻め」に向かうのかな。
そんなことを感じながら、八雲町の青空を眺めていました。