契り、誓い。
テレビのニュースなどを見ていますと、なんだか年末大みそかのような感覚を覚えてしまいます。それほどの賑わいといいますか、祝賀ムードが伝わってきています。
本日、2019年4月30日で平成という御世が幕を閉じます。
11,070日という日々でした。
天皇陛下関連の番組や報道を見ていきますと、天皇陛下という存在または制度は「契約」または「誓い」の代表例、まさしく象徴ではなかっただろうかという思いを抱きました。
詳しい訳ではありませんが、天皇陛下も数々の儀式及び祭礼におきまして、天皇という立場としての決意を述べられると聞きました。それはまさしく「契約」であり、また「誓い」であるように感じました。そしてそれは私たちも同じく、その行為をして日々を生きていることを実感しなければなりません。
平成の時代は、日本では戦争は起きることなく終えようとしていますが、日本の外では戦争または紛争といった「争い」が絶えず起こっています。物理的な事象は発生することなく終わろうとしているものの、考え方や価値観の変化が多様化し、見えない争いが顕在化したようにも見えます。争いはまさしく人間が創り、そして起こす事象であります。武器を持たずとも、争いは起こせます。それは学校のクラスでも、町内会でも、会社内でも同様です。それはつまり、人間は争うことを是とした存在であることを指します。
「面白くない」といった感情をはじめ、他社に対して心を開かない、または閉ざしてしまった人たちは変わらず多いと思います。実際にぼくが生活していました北海道八雲町のとある町内会の一部住人にも、そのような人たちがいました。仏頂面どころではありません。明らかに面白くない顔をしています。そのような人たちがある条件を前提にしてさも偉そうに振舞うことが、ときには許容されそして寛容とされてしまう空気は、平成の世になって顕在化したように感じます。さて、ぼくがいま住む上八雲の町内会はどうでしょうか。聞くところによりますと、歓迎してくれる人もいれば、反対の立場の人もいるようです。争う考えはありませんが、ぼくも必死で定住を目指す立場ですから、売られた喧嘩は進んで買う所存です。つまりは、とことんやるということです。どのような騒動になってもです。書いてもわからない、想像が乏しくなるというのは平成の特徴でもあったように思います。ここで骨を埋めるのですから、惜しみなく命をかけますよ。相手はどんな姿勢で臨むのかわかりませんけど。なので仮にこのブログを読んでいる町内会の人がいましたら、肝に銘じておいてくださいね。
ぼくが八雲町に移住する際も、八雲町と「契約」を交わしました。
その後、ぼくはこの場所で生きていく「誓い」をこの土地にたてました。
そしていま、町内で職を得ています。その際にも「契約」を職場と交わしています。
個人的な見解として、やはり「契約」や「誓い」は人生を左右するほどの大きなものだと思っています。
ただ残念ながら、この30年余りの時代は、この契りや誓いが軽んじられた印象を持ちます。ここまで書いてしまいますと平成という時代はよくない時代だったと言いたげですが、決してそうではありません。良いこととしてまとまったこともあれば、時代の流れで試練も浮かび上がってきたということをお伝えしたいのです。
平成という時代には、様々な経験を与えていただきました。
そして何とかこの時代を生かせていただいたことに、ただただ感謝しております。
明日からは、あたらしい年号「令和」の1日がはじまります。
明日からの日常も、変わらず生きていきたいと思います。