つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

札幌日帰りしてきた。

本日は休みを事前に設定しまして、道立公園噴火湾パノラマパークのパノラマ活動隊という組織の研修(のようなもの)の一環として、札幌市の百合が原公園に行ってきました。

 

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 札幌市の陽射しは八雲よりも強く、軽く日射病のような感覚を覚えました。

え、なぜかといいますと、普段住んでいるところ(働いているところ)は、最近そんな天気とはご無沙汰なのです。

 

 

結果として、札幌に行ってよかったなと思いました。

最近ひどかったですもん 笑。

 

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実は百合が原公園、初訪問(だと思う)。

 

百合の花をはじめ、たくさんの彩りに癒されました。

 

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心配事はありつつも、自分自身がつぶれてはいけないという心を持ち合わせていたことは幸いだったような気がします。ほんと、距離があるときのコミュニケーションは難しいですね。

 

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命ある光景を目の当たりにして、背筋が伸びました。

 

 

 

ここで潰れてしまっては、これまでの「修行」が意味を為さなくなります。

こういう状況のときにこそ、活用しなければならないことがあります。

感情的になっていては、何も解決しません。

勝手にどうこうするのは人間の特権になっていますが、それでご満悦になっているのもまた人間自身です。

 

かんたんに手のひらを反すさまをこれまで幾度となく見てきました。

そこには感情が大いに関係しています。倫理や論理は半ば無視されていることも事実です。

己の正しさのために目障りなものを蹂躙するという光景は、いくら綺麗ごとを並べたて、幸せを誇張するのが正当だとしても愚かであることに変わりはありません。

そこが人間という愚かないきものがこの世に多く蔓延っていることの影響であるように思います。

 

 

いつだか、ぼくは自分に呪いをかけていたことを悟りました。

それを相手は知りませんし、知りたいとももはや思わないでしょう。

勝手にやってれば?と思うのがせいぜいだと思います。

反面、そのように思われている側面も存在する可能性はあります。

何故ならば、そこに「投影」という現象が起こるからです。

自分自身とは無関係とは「勝手に」思っていたとしても。

幸せを理由にして棚上げにしているものがあったとしたら、容赦なくそれはその人の日常に降りかかるでしょう。

 

 

 

もはやその人と時間を重ねることはないでしょうが。

これまでの記憶はもうなくなることはありません。

残っている以上、ぼくは人知れず苦しみ続けます。

これが、ぼくがこの世界、この時代に来た理由なのだと知ります。

幸せになるためじゃない。

多分、苦しみ抜くことが、現世での役割なのではと考えました。

現実的な世界には非現実的な側面が介在しています。

 

頭でっかちなことを考えることが多いですが、それもすべて自分自身の「悟り」を続けるための契機であるにすぎません。

 

 

すいません、酔っています。

完全に勢いで、書いています。