つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

企業も経済。自治体も経済。

年齢を重ねて思うようになったのですが、よく選挙の公約などで

「〇〇無償化」

といった文言を目にするようになり、また実行されることが多くなりました。

それとは別に、特に経費がかかることについてメディアで取り上げられている光景もよく目にするようになりました。

 

 

ひとつの側面から見れば、出費のバランスを考えるようになったと言えなくもないのですが、別な視点から見てみると、これほどわがままに見えてしまう構図もないなと考えるようになりました。

 

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 人間の社会的使命の中に自然と組み込まれているのは「経済をまわすこと」。

これは特に意識していないのですが、結果としてそうなっていると言わざるを得ません。

 

「権利」というものが普遍化し、かつより力を持つようになってから、いろんな立場の人もどのようにお金(財源)を使っていくかについて自由に論議が交わされるようになりました。

 

企業もそうですが、自治体についても予めあるであろう財源を行動計画を立てます(予算)。その中には経済に直結するものもあれば、直結しにくいものもあります。

印象としては、この「直結しにくい」部分への予算割り当てを望む割合が多くなったように思います。

 

この、経済に直結しにくい部分への予算が多くなるとどうなるでしょうか。

答えは、収入につながりにくいということになると思います。

 

 

 

かといって、経済につながることばかりにお金をかけるわけにもいきません。

いつしか世間は「社会保障」や「社会教育」については、企業ないし自治体が身銭を切って行うべきだ(私見ですが)という考えに至ったようです。

 

 

地域の経済を回していくには、経済につながる部分と、社会保障といった部分、両方の投資が必要です。バランスよくというのが望ましいのですが、企業や自治体によってはそのバランスに偏りが出ます。それはその時の経営者に影響するのではないかというのが自分の考えです。

 

 

 

 

「生活するには、お金が必要」

 

悔しいですが、仰る通りの言葉です。

 

 

 

ですがこれは、個人だけでなく「企業」や「自治体」にも同じことが言えます。

企業であれば売り上げによる収入が、自治体であれば税収が、生活に直結します。

これがどんどん、理解されてなくなってきているようです(そう感じています)。

 

 

自分は払わない。

でも、お前はこのためにお金を惜しみなく出せ。

 

 

そう聞こえて仕方ありません。

おそらくどこでも、どこからお金を持ってくるかで頭がいっぱいだと思います。

そんな時に決まって聴こえるのは「十分確保できる」というセリフ。

これは正直、ウソだと思います。

幻想を見せるための、もしくは、自分やその団体の実績に見せるための方便です。

なぜなら、ほかのところでお金が足りなくなるのですから。

財源を集めるのは、企業であれ自治体であれ大変なことなのです。

 

 

 

これらをうまく回すのは、決してゲームなんかじゃありません。

まさしく生活がかかった一大事になります。

自分の使ったお金は、相手への「投票」になると授業で習った記憶があります。

それは普段の買い物も、自治体への税金納入も、同じことだと思いますし、その先のことをしっかりと考えていく必要があると思います。

 

 

何かをしっかりと整備して欲しいのなら、しっかりとお金を払う(投資する)必要がある。

どのような単位であっても、わたしたちが経済を動かしていくことに変わりはないのですから。