つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

みんな、『条件』を欲しがっている。

インフルエンザ予防接種を先日受けてきたのですが、問診票を記入する際、体温を測ってくださいと言われたので測ってみたところ、体温は36度1分でした。

 

 

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平熱に変わりはないのですが、ふと思ったことは、体調がすぐれない時期でこの数字を見ても、自分にとっては平熱ではない、調子が悪いときの数字だと思い込んでは布団の中に潜り込んでいたことを思い出しました。

 

今ではまったくそのように思うことはなく、「身体が冷えているのだな」程度にしか思わず、風邪をひかない様に気を付けようと気を引き締めるくらいにまでなっています。

 

そこから見えてくるものは、誰しも何かしらの「条件」を求めているのかな、ということでした。

 

 条件を求める、ということは、つまりは「幸せ」等に対する担保が欲しい、ということにつながります。それだけ「確約」されたものを求めているという訳です。

 

年収や仕事、持ち家といった現実的な分野から愛などに代表される抽象的なものまで、求めてしまうものは幾らでもあります。ただ幾らあっても満足させるためには比較対象が必要であり、そのうえで自分にふさわしい基準を定めます。

 

そこから導き出されたものに対し、ときには「意識高い系」と揶揄したりされたりしてきたのかな、と個人的には思います。

 

 

 

調子が悪いとき、調子がいい時の条件として大部分を占めていたのは「気持ち」だったように思います。

 

気持ちほど左右されるものはありませんが、当時は朝起きてしばらくしたときの気分がどうなっているかがとても心配でした。

 

少しでも不安なところを感じますと、途端に引っ込んでしまう。

 

 

どうしてそれだけで?と思われても仕方ないことで、仕事を休んでいたり。

その時は本当にそうするしかありませんでした。

ただそれが会社に理解を得ることが出来るかと言われれば、難しいと思います。

 

 

 

いろんな条件を並べて、それをすべてクリアしたものを受け容れて。

その後、その人はどんな生活を送っているのだろうか。

時折、そんなことを考えたりします。

その人の幸不幸を見たい、とはちょっと違うのですが、それだけ基準が高いものを求めた人の日常もやはり高いのかなぁと思ってしまう訳で、それが違うとなると、やはり条件は空虚なものでしかないのだなぁということになります。

 

仕事や生活するうえである程度の条件は必須になってきますが、そこに囚われ過ぎてもダメ、ということなのでしょうね。

 

 

うまく使い分け、というのもおかしな表現ではありますが、どこにもそれを当てはめるのではなく、余裕を持たせたうえでここぞという場面にのみ、そういった設定をすべきなのかもしれないな、ということをぼんやりと考えていました。