非日常が続く状況で、日常が傾きはじめてきています。
見えない脅威は世界に広がり、他国と手を取り合って回してきた経済という車のスピードが、みるみるうちに遅くなってきました。このままでは停止してしまいそうな勢いで、誰もが望まない展開がすぐそばまで来ています。
いつの間にか、普通のことができなくなってきました。
ほぼ規制に近いお触れが、苦しみを誘発しています。
これほどの苦しみは、何かに例えられるものではないのかもしれません。
(戦争や不況とはまた違った意味で)
日本人は我慢ができるひとたちだという話を聞いたことがありますが、今の若者たちは果たしてどうなのでしょう。この日常よりもやはりスマホを触ることができないことのほうが、苦しいと感じる人はいらっしゃるのでしょうか。
こういった騒動(とうとう世界ではパンデミックと定義しました)に限らず、何か物事が起こりますと、どうしても「原因」を考えてしまいます。現在はひとつの「結果」であるならば、その引き金を引いた「原因」があるからです。現実的なことも非現実的なことも、その理は共通していると感じています。そして思うのは、その結果はそこでジエンド、というものではないということです。「次につなげることができる」類のものです。終わり方はまだ決まっていません。悲観するにはまだまだ早いと言えます。
まぁ、ぼくが言ったところで、ねぇ 笑
楽観的(すぎる)表現かもしれませんが、今回は「これくらい」で良かったのだと思います。この先、もっと我慢をしなければならない時間が来ないとも限りません。そのための予行演習だと思えばいいのではないかと思いました。そして、忘れないようにしていかなくてはとも思いました。
当たり前のことが出来ないということに、窮屈さや苦しさを覚えても。
その中に楽しさを見出し、毎日を笑顔で過ごしていくことが大切だと感じました。