気がつけばどれくらいのあいだ、同じような報道を見ているのでしょうか。
対処法も確立されていない脅威を前に、今のわたしたちは息が止まらない程度に止まることを余儀なくされています。
この「止まる」という行動を大規模に行った効果は凄まじく、経済は急激に失速しています。日経平均株価やNYダウ(でいいのでしょうか)は連日速報で安値を知らせるほどで、ブラックマンデーに迫るものだと報じられています。
何となくですが、「綻び」が見えてしまったのではないかと思います。
これが、この世界に生きる人が考えたことの限界なのではないかと。
経済を批判しても意味がありませんが、こう経済がコテンパンにやられてしまっている様を見て感じたことは、「要点を捉えきれていない」というものです。
無論ですが、経済発展の材料はその時代によって異なります。
しかし材料は異なっても、発展のためには資源が必要不可欠になります。
大きな問題として、どうやら人類は資源を「無限にあるもの」として認識してしまったことで、後々の状況の変化に慌て、内側ではなく外側に頼る状態になってしまったのだと個人の小さな頭では思ってしまいます。
以前は資源も大量にありました。現在は大いに減りましたが、それに代わるものとしては人口の増加があります。しかし、「大量」は「無限」とイコールではありません。細かいことではありますが、そういった感覚の違いが、注力する方向をずらしてしまう結果につながったのではないかと思っています。
話は変わりますが、循環というキーワードが使われ、注目を浴びるようになったのは比較的最近のことと思います。
この循環は環境保護の色が強く、経済とは対立する立場で多用されている感があります。しかし本当にここ最近になって、経済の分野でも循環が重視されるようになってきました。環境保護活動を企業主体で行われることも多くなり、ほんの少しではありますが、世界が経済と環境を同等に捉え、考えるようになってきています。
ただ、「まだ」循環されてないままのものがあります。
それは、人の「こころ」です。
環境の大切さを語る人のこころも、経済の重要性を説く人のこころも、共通した「循環」が必要です。
こころを循環、ということはどういうことでしょうか?
表現が稚拙で面目ないのですが、「怒りがない」ものを次に繋げる、というものです。
経済にすがる人も、環境を死守する人も、その口調が強烈な人が多い印象です。
打っても響かない鐘だからというのが理由のひとつなのかもしれないのですが、強く打てば響くかといえば、それはまた別の話になります。
結局わたしたちは大事な要点も感情に流されやすく、結果として争いしか導いていないことが多くあります。そこを変えていきませんと、今後も痛い目に合います。
今回のコロナ騒動を、忘れない教訓にしなければなりません。
目に見えるものも、目に見えないものも、すべてが「循環」しています。
言い換えれば「輪廻」と表現すればいいでしょうか。
対策は色々と練られるでしょうが、個人個人の中でも大きな変化を起こしていく必要があるのではないかと思った、土曜日の午後でした。