最早目を背けずにはいられません。
日本の首都、東京都において新型コロナウイルスの陽性反応が出た方の数がぐっと上がってしまいました。この影響を受けて総理大臣は緊急の会見を行うほどです。数日前までは欧州で感染者の数が爆発的に増えた・・・という報道を目にしていましたが、嫌な意味での明日は我が身となってしまいました。
この状況を受けて、関東地方(確か東京都に隣接する県だったかと)はこの週末、不要不急の外出は避けるとともに、東京都への出入りも自粛するよう要請を行いました。便利な生活が一変した瞬間だと感じました。
こうなると不安感は一気に増すもので、買いだめの行動が起きています。
「在庫は充分にある」という声明を受けても、自身が向かうスーパーやドラッグストアなどにおいて、お望みのものが無ければ「意味がない・死活問題だ」と極端に捉える人が激増しています。こういう時だからこそ、自分の身の回りを安心で埋め尽くしたい。がらくた整理(つまりは断捨離)にも通じることなのですが、どうやらわたしたちは周りにモノを「置いておきたい」と本能で思ってしまういきもののようです。
現在において確固たる治療方法もないのですから、手洗い・うがいをはじめとした衛生環境を徹底的に見直すほかありません。これを機に、生活におけるほかのことも見直すいい機会なのかもしれないとひとり考えていました。
闇が続くのは恐怖でしかありません。それは本能で感じてしまうことです。
しかし、明けない夜はありません。
ただし、今回は他人任せではいけません。最大限の自助努力が求められます。
そうして迎えることができるのが、夜明けになるのではないかと思います。
これまでわたしたちは、確固たる証拠もないまま、あれやこれやといろんなことを論じ、そして評価を下してきました。それが誤りであったとしてもそれを省みず、逆に相手の腰の重さなどを引き合いに出し、批判に及んでいます。フタを開ければいろんなチャンネルでそのようなことをやっている、正直食欲がなくなります。
これまで何度も何度も、ケースは違えどそのような場面は見てきました。問いたいのは「それをしてどうなる?」ということだけ。単純に数字だけを稼ぎたいがための所業なら、無論最期は数字に泣きます。「1円に笑う者は1円に泣く」の論理です。
今は「確かなこと」しか意味がないと感じます。
自分の耳にだけ心地よく聞こえる新興宗教やスピリチュアルも同様です。
偏見ですが、力(代表的表現として)があるのならば、広く示しているはずです。
そして、信仰するもの、しないもの隔てなく、それを伝播しているはずです。
それがない、もしくは小規模に留まっているということは、そういうことだと思います。過信(妄信)は、新型コロナの予防などに対してもだめだと思います。
決して大きくはないですが、非日常の世界を感じ、何とか表現していこうとした人間のたわごとではあります。だからこそ、今は「試されている」と感じるべきです。その時に合わせたご都合主義(のようなもの)を。今は誰もが「軸を失いかける」可能性を持っているのです。
ま、個人であれこれ言っても、何にもなりませんが。
ただ言えることは。
ぼくはまだ、死ぬわけにはいきません。
できることは少ないですが、必死に確実に予防します。
衛生環境も整えます。
どうしてかといいますと
また逢いたい人がいる
やりたいこともまだある
やらなければならないことも後から出てくる
何より牛の世話だ
いや、文章表現を究めることだ
まだ恩返しをしきれていない
などなど。
その時が来てしまったら仕方ないと諦めますが(どう足掻いてもくるものはくる)、それまでは自分なりに試行錯誤を繰り返したいのです。
自分が持つ不思議な感覚(力と書くと誇大表現になる、その程度のもの)が今後活きるかは別として、今この場所で大自然に教えていただきながら、ただ愚直に過ごしていきます。
1日もはやく、日常が戻りますように。
日常が戻るために、わたしもできるだけのことはしていきます。
今はただ、それに尽きます。