令和2年3月の読書感想文 エンド・オブ・ライフ 佐々涼子:著 集英社
コロナコロナと言っていたかどうだったかといううちに3月も終わりを迎えようとしていました。明日で年度が終わり、明後日から新しい年度が始まります。日常にあまり変わりはないのですが。
そんな中ですが、読書も着々と進めています。
最近は図書館でもフル(10冊)に借りることが多く(外出避けていることもあり)、読みたい本リストは着実に横線が増えていっています。
今月は1冊だけの紹介になってしまいますが、こちらの本を読んだ感想を述べます。
佐々涼子さんの著書との出会いはいずれもメディアで紹介されていたことがきっかけでした。今回の新刊についてはSNSでその情報が流れ、入手したものです。
帯に「命の閉じ方」とあるように、文中は病で死にゆく人とその環境を取材したノンフィクションとなっています。ぼくは佐々さんの新刊だから、という勢いでこの本を購入したのですが、正直苦しみながら読むことになりました。
ページ数とは関係なく、重い話が飛んできます。
個人の感覚ですが、自分の父、そして祖父母が離れていった経験を思い出します。
文中にあるような、重い病気などではなかったのですが、離れていく様が描写されているところを直視することができませんでした。
たぶん、人が亡くなるその情景は、見たくないんだと思います。
ここに書かれたケースは複数ありますが、その様子を(ときには断片を)書ききったということに対して純粋にすごいと思いましたし、このテーマの重さを改めて感じました。
重い病だから、というわけではないのですが、死期がわかるのとわからないのでは、心構えも変わるように感じます。その人の親族も、そして治療にかかわる人たちもです。
だから純粋に、命を閉じんとする人に寄り添う人たちはすごいんだなと思いました。
実はこの本、結構前に読み終わっていたのですが、コロナの報道が過熱し、そしてとうとう芸能界で活躍された、志村けんさんが亡くなったという報道が流れて、この本の存在を思い出しました。
志村さんの最期はどうだったのだろう。
無粋な疑問ではありますが、この本を読んだからこそ、そんなことを想像してしまいます。
志村さんといえばやはり「8時だよ全員集合」で、幼少時の大きな楽しみのひとつでした。ぼくには兄がいたため、土曜の午後8時はひょうきん族と全員集合でチャンネル争いをしたことを今でも憶えています。その後は「バカ殿様」をはじめ、様々な番組に出演され、たくさんの笑いをいただくことが出来ました。
志村さんの訃報を聞いて疑問に感じたことは、「医療における正解とは何だろう」ということでした。医療はそれこそ経験の積み重ねや研究していくことが大切で、当てずっぽうの治療が実は逆効果だった、ということがあります。それは終末医療に関しても同じなのではと思いますし、そして今回のコロナに関しても同様だと思います。現段階で、「これが正解だ」とは、誰もが言い切れないと思います。そしてそれは、コロナに対する各所の対応にも言えるのではないでしょうか。
死を迎えた後で、ああしてやればこうしてやればと人は必ず思いを巡らせ、ときには後悔します。これが正しかったのだろうかと自問自答することもあると思います。ぼくのケースは後悔ばかりですが、ケースによっては「自分は悪くない。全部アイツが悪い」と押し付けてしまう人も少なくないと思います。
政府の対応に批判ばかりが集まっていますが、ではその批判を寄せている人、または団体は「正解を知っている」のでしょうか。単純に事例だけを見てああだこうだと言っているのであれば、それはワイドショーでインタビューに答えている一般人と同様のような気がします。しかしながらその批判はメディアの名前で伝播しますから、それを読む人はその内容に激しく同意するでしょう。そして不信感だけが積みあがっていきます。では、何が目的なのでしょうか?そこがよくわかりません。ぼくの単純なアタマでは、そんなに「これは間違いだ!」と批判するのであれば、あなたが正解を知っているのだから、どうぞお任せしますとお願いするほかありません。
そしてこの批判の構図ですが、他国の行動を引き合いに出しているようなのですが、日本と他国ではルールが違うということを忘れてはいけないと思います。他国でいとも簡単にできたことが、日本では法律として審議していかなくてはならない場合もあるかもしれません。そのあたりの事情を知らずに批判するのは、無知以外の何物でもありません。なんだか、「Aくんがファミコン買ってもらったって。ぼくも欲しいよ」と何も知らずに親におねだりする子供のイメージがわきました。
人の傷病を治療するとともに、ときにはその人の死に立ち会う。
国家資格とは言えど、タフな仕事だと思います。
状況によっては、医療従事者は軍隊よりも過酷な最前線に立つ可能性があります。
それが、今回のコロナなのかもしれません。
その人たちなしでは、コロナに向き合うことができないでいるのです。
昨今ではその医療従事者を差別する動きが出ているようですが、ただただ愚かです。
そういうときには恨み節をぶつけて敬遠するにも関わらず、必要な時は自分の権利を振りかざす。いくらストレスのはけ口がなかったとしても、これはやりすぎです。こういう記憶はずっと残ります。暴言を吐いた人は忘れても、言われた人の中には残ります。それがどのように影響するかは、まだ先の話になると思います。そしてそれは、どこにでもあるのです。いじめがいけないとする理由のひとつは、そこにあると思います。
今日は長々と書いてしまいました。読書感想文になっていませんが(いつもか)、命の閉じ方というキーワードから、このような日記を書かせていただきました。
都会から離れますと、ワイドショーなどで流れる極端な人たちの言動は悲しさしか覚えません。そういう意味では、自分は今のところ、まだ俯瞰できているのかなと感じました。