つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。このたび不定期更新に切り替えました。

エゴ。

現在の職場は教育関係機関ではあるものの、現場は畜産になり、外に出れば毎日いきもの(この場合は牛)に接します。

 

犬や猫のお世話をしたことはないのですが、牛の世話も楽しく、また大変です。それはどのいきものにも当てはまることなのかなと、日々思っています。最初は威圧感たっぷりだった牛も1年経てば愛嬌のある、可愛らしいいきものに見えて仕方ありません。性格の違いも見え、まるで人間だなと感じることもあります。

 

ただ、お世話をする以上、どうしても覚悟しなければならないことがあります。

それは、いきものの死、です。

 

 仕事の関係上、牛に関する本を読むようになりました。そして過去人間のお産に関する本も何冊か読んできた経験があるのですが、共通して言えることは、「出産は命がけ」ということです。人間のお産においても死の危険性はゼロではないし、牛の出産においてもそれは同様です。それは、技術がどんなに進歩しても、なくなることはないと現段階では思います。

 

しかし、その難しさを知らない人たちは、かんたんに「死なせるな」とか「救え」とか、とにかくいろんなことを言います。その実際がわかったとしても、なかなかこの要求を変えることはないのかなと思うくらいです。その背景として、「技術が進歩していると思い込んでいる」ことが大半です。大半である理由は、単純に見ていないから。話に聞いているだけのことで、そうなのだろうとあたりをつけてしまうことが原因に思います。

 

どれだけの例があるかはわかりませんが、死産という言葉が無くなっていない以上、人間の世界にも牛の世界にも、生まれ生きることが叶わなかった存在がごく少数でもいるということです。それを生かせ、死なせるなと言うのはかんたんです。その背景には、経済的な理由もあれば、その人個人の理由もあるように思います。

 

 

 

結局それは、エゴなのではないだろうか。

 

ふと、そんな疑問を覚えました。

 

理由は、お産に対して、生きることに対して「人間の介入」があるからだと思います。

 

 

お産(出産)は、自然現象です。自然の理です。

それを調整、またはコントロール「仕切る」のは、困難です(努力はしています)。

すべての人が、というわけではないのですが、事情を知らないのにも関わらず、好き勝手言うのはエゴではないか、と感じました。

 

そしてこれは、昨今の自然環境を守るというものにも当てはまる気がします。

人間が環境を変えようとするのには断固として反対する。

しかし自然がその圧倒的な脅威で環境を変えるのことには黙して語らない。

(反対に、その環境を戻せと言ってくる可能性は、ある)

わたし自身はあまりそのような人たちと接したことはないのですが、聞き漏れてくる活動家の内容はおおよそこれです。その主張自体に反論はありませんが、惜しい、残念、というのが正直な感想です。

 

個人の意見としては、「人間も自然」であるからです。

そして反論を唱えるひともまた、人間だからです。

これ以上言いますときりがないので・・・

 

西暦が進むごとに、どうやら人間の中にある何かだけはどんどん大きくなったような感じです。それはどこかの誰かが本来望んでいることではないのかもしれません。言わばわたしたちは試されている、と言ってもいいのかもしれません。このような若輩者に解決策はまだまだ見出せませんが、個人の感情ゴリ押しの主張では、何もかもうまく着地しないというのが、現在の心境です。

 

 

 

最初の話に戻りますが、職場が牧場である以上、不慮の事故で牛を死なせたくはないです。これは本心です。

しかし、どう頑張ってもそのリスクを回避できない環境というのはどうしても生まれてきます。ただ言えることは、リスクの大きさを小さくすることだけ。限りなくゼロにすることは可能だと思っています。

 

わたしは牛のことに関してはまだまだ勉強不足です。

牛と触れ合っていると、とても癒されます。そこに感謝もしています。

時折どつかれもしますが。(笑)

 

牛も多少ながら人間のことをわかってくれています。

だからわたしも、牛のことをもっと知ろうと思います。