想像の話をします。
毎日過熱し、どこかで怒号が飛び交うコロナ騒動。
お昼前に実家に電話しましたが、向こうもいろいろ大変なようです。
親兄弟元気で安心しました。
さて、本題です。
誰もが考えたであろう疑問である「どうしてコロナは出てきたのか」。
これを根拠のない、想像の範囲で考えてみました。
あくまで根拠のない話なので、そのあたりをご了承願います。
新型コロナはどうして生まれたの?
⇒生まれるには「理由」がある。
まだその仕組みは解明されていませんが、イメージとして何かが組み合わさって新型コロナが誕生、もしくは表面に出てきたと想像します。
その理由について考えました。非現実的なことばかりですが
・ほんとうの意味での「笑い」が世界から減少した
・社会(政治や経済、地域を含めたすべて)の進めかたが荒廃した
を、個人で想像していました。
ひとつめの「笑い」に関して言えば、志村けんさんの死去があります。
8時だよ!全員集合は、それは終末の大きな楽しみでした(サザエさん以上)。
その時はひょうきん族もライバル番組としてありましたが、ぼくは断然ドリフターズが好きで、よくヒゲダンスのマネをやっていたものです。
全員集合の放送が終了した後も、志村けんさんをメインとする番組は形を変えて続き、テレビ局の垣根を越えて笑いを提供してくださいました。バカ殿さまなんかはその典型例ですね。そしてそのキャラクター、人間性が、晩年となってしまった時期の番組構成に反映されています。
亡くなられてはじめて知ったことですが、志村さんの人となりは海外でも知られており、その姿勢が各地から伝えられてきました。それほどにすごい人だったのだと思いました。
個人の考えですが、志村さんがコロナで亡くなったことで
「笑いを忘れた世界への教育的指導(今はまだ)」
と解釈しました。はい。あくまで個人的な解釈です。
わたしたちがこの世界で生活する以上、笑いは必要不可欠な要素です。
どんなに辛い環境でも、先人は笑うことを忘れなかったと思います。
現代は笑ってない、という訳ではないと思うのですが、「どんなことで笑っているか」の割合が大きく変わったのではないかと思います。
ここで注視するのが、「誰かを貶めることによって得る笑い」です。
ここには、「差別」や「いじめ」などを含めます(全世代への課題)。
漫才師や落語家、コメディアンが観衆を笑わせるのではなく、人が人を抑圧して得る笑いが、この時代には多くなったのではないか。その笑いが心身に何らかの反応をもたらし、コロナ感染へと至ったと想像します。
ふたつめですが、これはもう日々のニュース等で一目瞭然となっています。
内閣総理大臣をはじめとした、行政を動かす側へ煽る批判が日に日に強まっています。
何を言ってももうボロクソです。そこには信用・信頼はカケラもありません。
まさしく、「ああ言えばこう言う」という、終わりの見えないクレーム対応です。
いつしかなのかはわかりませんが、世間の声の届けかた、民意の示し方など、物事の決め方や進め方が「変わった」と思っています。
教科書等で習ったもののイメージは、「みんなで良く話し合って決めていく」というものでした。それは国であっても会社であっても、そして地域であっても変わりはないと思います。
しかしそれがうまくいかなくなりました。その背景には自分自身への負担の回避や価値観の相違等、懸念事項の方が多いです。現在は落ち着いた話し合いというよりは、如何に優位を保ったまま相手を納得させるか。おいしいところはすべて自分のモノにするという欲望丸出しの話し合い(というか、カツアゲ?)に成り下がっていると想像します。批判等をはじめとしたネガティブ発言で政治を動かそうとするのは、本末転倒のような気がします。それは本来の物事の動かし方ではないと思います。事を動かす原動力がそういったものであったなら、動いた物事はコントロールが途中で「きかなくなる」ことを想像します。その先の「ひとつ」に今回の件があっても・・・
以上がすべて、想像の話です。
原因がわかっていない以上、そんな可能性もある(おそらくないけど)ことを示唆しておきます。
今後大発見も起きると思いますが、反面「そんなことが原因だったのか」という驚きも起きる可能性はあります(例えば特定の魚の水揚げが減った/増えた、とか)。
根拠のない話ではありますが、いろんな報道を見て、いろんなことを感じたというお話でした。