日々を報道を見て誰もがわかることなのかもしれませんが、わたしたちの感情をはじめとしたいろんなものが擦れていき、脆くなってきています。それとは反対に、とても殺伐とした雰囲気をどこから持ち出すようになってきました。
以前こんな記事を書いていました。
各種報道を見ていきますと、まさしく「私刑」となることが次々に見受けられるようになりました。それを危惧する声もだんだんと大きくなってきていますが、モラルはかろうじてあるのか、それとも意味がないほどにまで衰えてしまっているのか、とても繊細な状況にあります。
自粛を求める声も、半ば凶器に見えるようになってきました。
自粛を発する声は正当な行為、または主張と信じて疑っていません。
ただ不思議なのは、その効果が納得よりも恐怖を覚えてしまうこと。
どうやらその正義の陰には、正義とはまったく違うものが隠れているのかもしれません。
外出をすることをはじめとした自粛要請が功を奏しつつあり、人通りの多さはどんどん弱くなってきていますが、反対に自粛等を叫ぶ声は強くなっていきます。その声はいろんな手段を用いており、そして匿名性を強くしているので、はっきりいってビビリます。書いていて何となく、銀河英雄伝説に出てくる「憂国騎士団」を思い出してしまいました。
素直に反応する人、ひねくれたリアクションをする人など様々なのが事実なのですが、その特徴としては、「なぜやらない!」という訴えを発するテンションが高すぎる点にあります。その状態を説明するには知識が足りませんが、その背景にあるのはその人たち個々人が捉えている正義感にあるものと考えます。
以上に書いたことはもうそれはどうしようもないことで、その人自身が気づいていかないとならないものです。他人ではほぼどうしようもありません。とまぁそんなことを考えていましたら、過去に行ったヴィパッサナ瞑想の合宿に参加したときのことを思い出しました。この時は戒め(期間中の契約と言ってもいいかもしれない)で、コミュニケーション自体を禁じられました。そのほか、日本人にある「ゆずりあい」に見られる心情と行動も禁じています(正確には違うかもしれないけど、たぶんそのようなもの)。
その他、ストレッチ程度は許されますが、運動も禁じられます。つまりは、普段と比べて格段に何もすることが出来ない状況になります。
この状況で僕は10日間ほどを過ごしました。
今でも鮮明に覚えていますが、苦しいことこの上ないです。
何も出来ないことがこんなにもとは思ってもみませんでした。
そのような、ほんの少しの経験からではありますが、現在の状況を見ますと、やりたいことが出来ない状況に発狂しそうな人たちが、自粛を求めるという大義名分を掲げて好き勝手やっている、というように見えるのです。
そう。何もしないことがコワイんです。
それはもう、禁断症状だと思います。
コワイものから逃げる行動は、それはもう必死です。
たぶん普段の必死さとは違ったものがあると思います。
その調子でやられてしまいますと、双方ともかなり疲れます。
コロナが明けた頃には、日本はどうなっているでしょうか?
今更ながら、二次災害を心配します。
経済が傾きますと、心までぐらついてしまう。
なんだかんだ言っても、これが現実です。
金の切れ目が縁の切れ目という事象が今後も出てくるでしょう。
それは寧ろ、これからの社会には必要なテーマなのでしょうね。
幸い、今住んでいるところ、働いている場所は、そういったことをあまり感じることがありません。もちろん経済活動には参加していますので、行動には気を配っています。以前の僕でしたら、寝込んでいたと思います。今では健康体そのものです。人生で一番健康であるという状態を更新しています。それくらい、この場所と自分という存在はマッチしています。
緊急事態宣言が終了となる日まで、あと10日ほどになりました。
ゴールデンウィークはあきらめなければなりませんが、この期間が多くの人にとって気づきと学び、そして悟りをもたらすものであって欲しいとささやかに願います。