つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

どんな「先」を見てる?

わたしたちは常に、今この瞬間の先のこと、つまり「未来」についてあれこれ考えてしまいます。

 

これは今この騒動があるから・・・という訳ではなく、もはや日常に根付く議題として存在し続けています。

 

古来よりこの「先」は運命における先手を取る行為として特別視されてきました。

それは現代においても同様で、自身の幸せや金銭的余裕をもたらすものと信じられています。

 

果たしてそうなのだろうか?

 

 

と、雨に打たれながらふと考え込んでしまいました。

 

 いろんな説があると思いますが、先、つまり未来のことって「予め決まっている」のでしょうか。

もしその通りだとしたら、当人が知らないだけでその人生が進み、終わることになります。

 

反対に「白紙」だったとしたらどうでしょうか。

自身の努力、選択次第でどのようにも変化する。

 

同じ「先」でも、意味合いは全く変わってきます。

 

 

 

ただ、理論的に「先」を導くことはできるようになってきています。

新型コロナの収束は、この理論にあたります。

要するに現実的な根拠があっての「先」を見出しているということになります。

こういった「未来」の見方もあるということですね。

 

 

 

しかしいつの世代も、根拠が定まっていない「未来」を信奉したがる傾向にあります。

それはどこかで、自分には「救いがもたらされる」と信じて止まない姿勢です。

その人がこれまでの時間をどのようにして過ごしてきたかはわかりませんが、その先は何と曖昧で自分本位であるかがよくわかります。この究極は、良いものであれば信じ、悪いものであれば信じない、もしくはその指摘した人をペテン師呼ばわりするというところにあります。これには「自分が望むことを言ってくれない」も当てはまります。代表的表現で「占い」という言葉がありますが、現代のそれはもう占いではなくなってきているように思います。収益につながらない可能性も出てくるからです。

 

先が決まっているとしたならば、人間は努力することを止めるでしょう。

ローリスク・ハイリターンを目指し、その最高の一瞬のためだけにすべてを注ぎ込むことでしょう。それは現実的に言えば、歓迎はできないと思います。

 

誰かから聞いた話で、この世界に生きるいきものはすべて「苦労する」ことがその時間内における与えられた課題なのだそうです。どうしても「楽」を目指してしまいますが、その行為が逆に苦労を大きくする可能性があることを想定しなければならないのだと思います。

 

 

僕自身、先のことはわかりません。しかし、望む先はあります。

言えることは、黙って待っていてもだめだということです。

何かまじないでもすればいいのだとは、思っていません。(昔は思ってましたが)

 

望むことすべてが叶うわけではありません。

望むことすべてが叶わないほうがいいのかもしれないと、最近では思います。

しかし望みは行動の源泉になります。

そのために、日々の頑張りにつなげることも、実際にあります。

どのように結びついていくかはわかりませんが、その「先」が少しでも望みに近づくことになるよう、努力あるのみです。

 

 

そんなことを考えながら、冷え込んだ街を車で移動していました。