つたわりとどけ。

日常と非日常のはざまから、伝え、届けたいことを個人で探求し、実践します。

「見えない」という迷信。

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朝方は曇りの天気だったのですが、夕方が近づくにつれ霧が濃くなっていきました。

北海道八雲町に来て、はじめて「じり」という言葉を耳にしました。

どうやら、濃い霧が出てきますと、そのような表現をするようです。

 

撮影している場所は牧場内ですが、霧が雲のようにじわりと近づきます。

近くの看板であればかろうじて見えますが、そこから先の光景(車庫などもありますが)は、霧の中に包まれてしまいます。

 

ちなみにこんな天気の中でも、子牛が1頭産声を上げました(写真右下)。

少し離れたところには、草を食む母牛の姿が確認できます。

 よく、「わたしたちの行動はすべてお天道様が見ている」という話を聞かされました。

それは真実なのかもしれませんが、自分で自分を律する方便でもあったように思います。しかし最近はそのバランスが崩れ、「自分がよければそれでいい」という風潮が強くなってきました。昨日今日に限らず、以前からそれが原因で悲しい出来事が起きていることを、人類はまだ直視しようとしません。

 

 

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子牛のことをまったく気にしていなさそうにしていますが、実はめっちゃ気にしています。草を食んでは子牛のほうをちょくちょく確認しています。子牛にはまだよく見えていないのかもしれませんが、母牛はしっかりと子牛の存在や場所などをチェックしています。

 

 

どうしてもわたしたちは「目」に頼ってしまいがち。そして、自分の存在を疑似的にでも「消す」ことを渇望するようです。それがつながるのかどうかはわかりませんが、かつてあったインターネットの世界にある「匿名性」が、打ち破られようとしています。デジタルが進んだ昨今でも、基本軸はどうやら一緒のようです。

 

ネットに限らず、現実世界においても「陰口」は数多に存在します。

かなり前の統計ですが、残念ながら自死を選択する人が年間3万人いるということを知り、かなり驚いた記憶があります。それだけの被害者がいたとしたら、それだけの加害者、それ以上の加害者がいるという計算になります。そこに正義があるのかもしれませんが、正義は人を消すことはしません(と、思ってる)。どうやら、歪んだ軸があちこちに打ち立てられているようです。

 

 

 

 

 

 

かつて、ぼく自身も陰口を言われる立場にありました。

 

「使えねぇ」

「きもい」

「死ねばいいのに」

 

高校時代~社会人(比較的若いころ)時代に、このようなことを言われ続けました。

 

残念ながら事故死してしまった同級生のお通夜に参列したときも、同窓生からは

 

「なんでコイツいるの?」

 

という視線があちこちから飛んできました。

 

 

きっと、「〇〇の代わりにお前が〇〇よ」と陰口を叩いていたのでしょう。

そんな世界にうんざりしたので、数年後には卒業アルバムを処分しました。

もうつながりはないでしょうが、高校時代の~と言われても、ピンとこないです。

 

そんな視線を送っていた同窓生たちは今、どんな環境にいるのでしょうか。

まぁ、関係はないですが。

 

 

はい。多少愚痴を吐きました。

 

 

 

ぼく自身もどっぷり当てはまりますが、「見えない」と確信して色々と事を起こすことはあります。しかし、それが「明るみ」になることも、突然としてあります。ではそうなった場合に、素直に頭を下げればよいのか?願わくば、それだけで収束してくれればいいです。手遅れになった時には、それですらもう無意味になります。代償はもっと、大きく深くなるばかりです。

 

わたしたちは、自分にとって都合の良い解釈を随所にしています。

開き直ればその過ちを問われない、とも思っている節があります。

しかし、ああだこうだと決めていくのは残念ながら世間であり、あべこべな論理を築いていくのもまた世間になります。誰かが主張する正しさも、その世間の波によってかんたんに掻き消されます。その声も、存在さえも。

 

 

新型コロナ騒動の傍らでは、悲しい日常が続いていました。

夕方のニュース番組をテレビで見ていましたが、この件をきっかけに新しいルールなどがすみやかに整備されるだろうとコメンテーターが言っていました。やはり、悲しい日常はどこかで断ち切らなければなりません。ひょっとすると、今後新しい組織が立ち上がるのかもしれませんね。そうならないように、穏やかに過ごすことが出来る日常を、ささやかに祈ろうと思います。