「居場所」って。
日曜の午後、「ザ・ノンフィクション」を放送しているであろう時間帯にこのような番組が録画されていましたので、見てみました。
https://www.uhb.jp/program/ringonomachi/
このりんごのまちは、札幌の「平岸」を指します。
1時間ほどの番組でしたが、いい番組でした。
(アーカイブなどで視聴できるとよいのですが)
昨年はよく「こども食堂」というキーワードが流行りました。
今回の「みんな食堂」は、こどもに限らず、といった感じのようです。
主催者はコミュニティFMの代表だというから驚き。
こういった活動の主催は大体がNPO法人です。
中身には触れませんが、こういった場所も「新型コロナ」の影響を受けました。
こういった「交流の場所」が一時的にでも停止することは、おおごとなのだと感じました。
「居場所」。
この番組を見て感じましたが、誰もがこの居場所を有しているわけではないようです。
自宅ももちろん居場所ですが、普段の生活を送る場所と、社会活動を送るところとしての居場所は、違うように思います。そして人は、社会活動における居場所のあるなしで大きく左右されているように思います。
必死に作り上げた居場所も、今回の新型コロナの影響で近づくことを許されなくなったりします。何かがきっかけで、これまであった居場所がかんたんになくなるというのは、どうやらあるようです。
ネットに居場所を求める人もいる。
会社に居場所を求める人もいる。
彼(彼女)の部屋に居場所を求める人もいる。
ステージに居場所を求める人もいる。
テレビカメラに居場所を求める人もいる。
目に見える世界、目に見えな世界に、居場所を求める人はいまも昔もいるようです。
居場所は「ある」ものではなく「見つける(あるいはつくる)」もの。
難しいことかもしれませんが、そのような気がしました。
「ある」というのは詰まるところ都合の良い考え方です。
大切にしたいのであれば「必死になって」探す必要があります。
状況としては「ある」なのでしょうが、そこにあるからそこにいくのではなく、という感じですね。
そして、居場所は変わっていくものだと思います。
社会的立場の変化に伴い、活動の場所は変遷します。
そのため、ずっと同じ場所に留まるというのは、何かと難しいと感じます。
同じ場所にいることももちろん大事ですし、凄いことだと思います。
肝心なのは、その居場所で何を感じて味わい、動いていくかだと思います。
かくいう私も、まさか札幌市を離れるとは思ってもいませんでした。
そして、まったく経験のなかった業界で働いております。
何が居場所を変えていくかは、わからないものです。
これまでちゃらんぽらんな生活を送ってきたので、この居場所で少しでも長く、様々な分野に貢献することが出来ればと思っています。
人間、何かと「支え」は必要です。
それは自分のからだの調子が悪いときに、薬や治療に頼ることと同義かなと思います。
自分でどうすることもできなければ、そういったものに頼って「引き上げて」もらう。
そういった関係性は、誰にでも必要だと思います。田舎都会に関係なくです。
緊急事態宣言は解除されましたが、北海道内はまだ緊張感が残っている状態です。
「居場所」を失った方もいらっしゃるかもしれません。
「居場所」がまだ残っている方もいらっしゃると思います。
「居場所」の価値観が変わったという感覚を得ているかもしれません。
「居場所」に頼らないと決めた方もいらっしゃると思います。
この事態で、「居場所」についての考え方や捉え方が見直されたのではないかと思います。かんたんにできることではないとわかってはいるのですが、その居場所が「苦痛」に感じるのであれば、新たな居場所を必死で探す時期が来たのだと思いますし、「安心」を与えるものであれば、改めて感謝をささげていただきたいと思います。
ぼくの居場所は、札幌市からこの八雲町に移しました。
幸いにも、この町で居場所を得ることが出来ました。
次は、この居場所を広げ、増やしたいと思いました。